- 第17回 -著者 小西 浩文


「95年 秋 カンチェンジュンガ 8586」

救助要請
 私は、愕然とした。「どういう状況に なっているんだ。」「ロワイエは、昨日 行方不明になっていて、シャムーは、今朝9時の交信を最後に、連絡がとれていない。」
 私は、ザックから、無線機を取り出してB・Cを呼び出した。「B・C どうぞ。」
 「バラサーブ(隊長)、現在どこですか。」「さっき、C3に着いた。 シャムー達は、どうなっているんだ。」「バラサーブ、今朝の交信を最後に、消息を絶っています。今、マルコが、こちらに来ていて、バラサーブと話をしたいと言っています。」
 マルコとは、シャムー隊のB・Cマネージャーである。「小西!マルコだ。シャムーは、今朝、8400m付近にいることを双眼鏡で確認している。 C3には、我々の緊急用酸素ボンベが、何本かあるはずだ。それを使って、今から8400mまで登ってくれないか。頼む!」「マルコ、ちょっと待ってくれ。」

 私は、戸高とニマ・テンバと相談した。棚橋と松原には、すでにC3からC2に下りだしてもらっていた。 もし、レスキューに行くとしても、戸高とニマ・テンバとの3人になる。しかし、これは、非常にきついリクエストだった。ここで、レスキューでも酸素ボンベを使えば、もう無酸素登攀には、ならない。それに、現実に、もう昼すぎである。今から、8400mに行くということは、大変なリスクである。
 これは、断わざるを得なかった。「マルコ、このC3から、フィックスロープを何本か張ることは出来るが、今から8400mに登るというのは、無理だ。もし、シャムーと交信できたら、なんとしてでも自力でC3に降りてくるように伝えてくれ。」

シャムー達は、消息を絶った
 非情と思われるかも知れないが、この極限の世界では、自分で自分の生命を守るしかない。私と戸高は、C2に戻った。シャムー達は、消息を絶った。翌日、B・Cに戻って聞いた話は、壮絶だった。滑落したヒク・シェルパを追って、下山した二人のシェルパ達と別れて、シャムーとロワイエは、頂上を目指した。
 マルティーニは、ルートを間違えたので、8300mで引き返したという。ロレタンとトロワイエは、午後2時半に登頂して下山中にシャムー達に出会う。ロレタン達は、シャムー達に「ここから頂上までまだ3時間は、かかる。もう遅いから、頂上はあきらめたほうが、良い。」と、言ったが、2人は、登って行って、頂上の40分程前で諦めたという。  
 そして、下山中にロワイエは、行方不明になり、シャムーは、8400mでビバークした。翌日、午前9時にシャムーは、無線でただ「スープ、スープ、スープ。」とだけ言ったと言う。そして、B・Cから双眼鏡で見ていると稜線の向こうに消えたという。

ベースキャンプに必要なのは、静けさ、おいしい食事、いい音楽、本、そして・・・
 私達は、1週間ほど前に私が、衛星携帯電話を借りたお礼に、シャムー達をランチに招待したことがあった。彼らは、ネパール人スタッフを除けば、クライマーが、シャムーとロワイエ、そしてドクターであり、マネージャーであるマルコ、シャモニーに住んでいる女性ジャーナリストの4名であった。 
 シャムーは、フランスのスーパースターであるらしい。 彼の14座完登のニュースをフランスの国民は、強烈に期待しているという。
 「14座が、終わると、どうするんですか?」松原の問いかけにシャムーは、「以前、エベレストでやったんだが、生理学的な研究を山でしたいと思う。」と、答えた。
 しかし、彼からは覇気や気迫は一切感じなかった。どちらかといえば、山に疲れているような雰囲気を私は感じた。アタック前の休養中、ロレタン達のB・Cにアタックルートの状況を聞きに行く。彼らは、歓迎してくれた。
 ロレタンは、36~37歳ぐらいで頬は、げっそりとこけ、足は凍傷にかかったらしく、金ダライにお湯を入れて足を漬けていた。疲労がひどいのか、かなりだるそうに見える。  
 トロワイエは、40代半ばか、がっしりした体格の陽気な感じで、ロレタンよりは、はるかに元気であった。彼らのベースキャンプは、快適であった。それを、私たちが褒めると、トロワイエが言う。「ベースキャンプに必要なのは、静けさ、おいしい食事、いい音楽、本、そして」ちょっと間をおいて「きれいな女性がいたら言うことはないね。」ウインクしながら言う。

ヒマラヤ登山、8000mが、人生なんだね
 その言葉どおり彼らのアタックが終わるころに、金髪女性がベースキャンプに到着したらしい。ロレタン達に、私たちの登山歴が、記されている英文計画書を見せる。 
 「君達も、ヒマラヤ登山、8000mが、人生なんだね。」 トロワイエが、微笑みながら言った。いよいよ、私達のアタックステージである。C1で一泊してC2に入ると、マルティーニともう一名のメンバーが、登頂して降りてきた。マルティーニは、最初は、無酸素でアタックしたが、失敗。二回目は酸素ボンベを使って登頂した。非常に嬉しそうだ。

 「コングラチュレーション!」祝福すると、彼が私に言う。「小西、シェルパも死に、シャムー達も行方不明となった。C3には、酸素ボンベがある。それを使ったらどうだ。」
 「マルティーニ、有難う。無酸素でがんばるよ!」 
 彼は、力いっぱい、私を抱きしめてくれた。 翌日C3に入る。全員コンディションは、よさそうだ。 夕方、深紅の高峰を眺めながらテントの中で、ベースキャンプと交信する。 「バラサーブ、明日は、頑張って下さい。」 シェルパ、キッチンスタッフ達が激励の言葉をかけてくれる。午後6時半、シュラフに入る。午後11時起床、午前1時出発の予定である。 私は、興奮を抑えつつ、シュラフの中で呼吸に集中した。



■バックナンバー
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(1)
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世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(終)

■著者紹介

小西浩文(こにし ひろふみ)
1962年3月15日石川県生まれ。登山家。
■登山歴
1977年 15歳で本格的登山を始める
1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂
1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂
1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録
2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中
☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ
☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず
■その他
1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演
1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー
1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演
1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演
1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000