- 第4回 -著者 小西 浩文


ナムチェバザールで行をする
 ゆっくりと、臍が背骨にくっつく程、息を吐ききってゆく。意識は目の前にあるローソクを見つめながら、眉間と丹田、脊髄に集中している。数秒の止息のあと、再び、ゆっくりと鼻から息を吸っていく。半眼の状態のまま、かなりの時間、まばたきをしなくなっていることを私は感じていた。

 此処は、ネパール、クーンブ地方のエベレスト街道のナムチェバザールという、大きな村から4時間ほど登った処にある、古いゴンパ(お寺)の本堂であった。標高4000メートル。このゴンパには、地元のシェルパ達から、多大な尊敬を受けている60歳の尼僧(シェルパ語でアニという)と、17歳の第七世ラマの二人のみがいた。ラマは輪廻転生のラマではなく、世襲制のラマであった。
 クーンブ地方にはゴンパはたくさんあるが、そのなかでも最も古いゴンパの一つが、此処であった。ゴンパの名前は<チャロック・ゴンパ>という。チャロックとはシェルパ語で「カラスの頭」という意味で、ゴンパの遥か後方に聳える大岩壁の頂上辺りが、ちょうど、カラスの頭が横を向いた様に見えるので、その名前が付いたという。

 シェルパを一人連れて、今年10月上旬から、私は此処で行をおこなっていた。通常、外国人が滞在することは勿論、写真撮影も禁じているアニとラマが、私とシェルパの滞在を許可したのは極めて稀な事であった。許可をくれた理由としては、私が非常に懇意にしているシェルパのお兄さんが、以前、此処で7年間、半洞窟に籠って修行しており、その彼からの紹介があったという事、そしてもう一つは、恐らく私がネパール語を喋れるという事であったかと思っている。

苦痛から逃れる為に歩き続けた
 7月中旬に、最愛の妻、里絵を亡くした私は、9月初めに彼女の七十七忌法要を済ませると、様々な全ての仕事、しがらみを振り切って、日本を出てネパールに来ていた。
 カトマンドゥでは、旧知のネパール人、シェルパ、在留邦人達が里絵に対して哀悼の意を表してくれて、励まし、慰めてくれた。すぐヒマラヤに入った私は、来る日も来る日も、苦痛から逃れる為に歩き続けた。
 まるで胸をあぶられ、焼かれる様な苦しみは、もはや、現世で里絵と会う事が出来ないという非常な現実を思う度にとどまることを知らなかった。
 9月一杯、ヒマラヤを歩き続けて、一旦、カトマンドゥに戻った私は、まだ帰国する気が全然おきず、この古来からの修業地であるチャロックに来たのであった。

 アニから色々と話しを聞くと、ナムチェバザールにも14年間下りた事がないという。ラマが毎週土曜日にナムチェで開かれるバザール(市場)に、食料品等を買い出しに行っているという事で、二日に1~2回、麓の村々からシェルパ達が、安全祈願、厄除けなどの祈祷をお願いしに登って来て、お布施を置いていき、それで生計を立てているという事であった。

痛みに耐えるには、荒行しかなかった
 此処に到着したその日の夕刻から、私は本堂を借りて座禅を開始した。次の日からは、午前中は後方の山に4700メートル程まで登って下りてきて、昼食後、天気が良ければゴンパのすぐ近くの、ちょうど、坐るに適した岩の上で座禅を行い、夕刻には本堂で再び座禅を行った。
 何日かしてからは4200メートルにある滝で、滝行を行う様になった。初め、アニとラマに相談した時には、それは身を破りかねないから止めた方がよいと止められたが、里絵を失った痛みに耐える為、私には、もはや荒行しかなかった。
 数日してから、座禅を開始して15分ほどで速やかに禅定に入る様になってきていた。

危険極まりない場所
 チャロックに到着した日から、私に同行してきているシェルパとラマのあいだで、最も話題にのぼっていたのは、イエティ(雪男)の話であった。此処はイエティが年に1回程、姿を現すことがあるという。
 ヒマラヤ登山を始めた20年前からこのての話は、シェルパ達から聞いていたが、現在まで、かなりの年月を一人で高所で過ごしてきた私は、当然、見た事もなく、一笑に付していた。私は、己の眼で見たもののみを信じるというリアリストであり、その類の話は、0.01%も信じていなかった。
 チャロックは、地元のシェルパ達が言う通り、ホーリープレイス(聖地)であり、スペシャルプレイスであるという事は、勿論、私は承知していたが、数日後、此処がホーリープレイスであると同時に、極めて危険極まりない場所であるという事を思い知らされた。



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■著者紹介

小西浩文(こにし ひろふみ)
1962年3月15日石川県生まれ。登山家。
■登山歴
1977年 15歳で本格的登山を始める
1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂
1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂
1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録
2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中
☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ
☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず
■その他
1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演
1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー
1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演
1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演
1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000