- 第3回 -著者 小西 浩文


貴方なら絶対に無酸素でエベレストに登れるよ
 2002年9月中旬、ネパール。エベレストの麓のナムチェ・バザール(3450m)に私はいる。7月に亡くなった妻の思い出をかみしめるかの様に、私はヒマラヤを歩いていた。私のいるロッジから5分ほど登ると世界最高峰のエベレスト(8848m)が見えるのだが、今秋は天気が良くなく、もう3日間いるのにもかかわらず、未だにその姿は見えなかった。ロッジのダイニングから雨の降る外を見ていると、6年前の想い出が鮮やかによみがえってくる - まるでついこの間のことの様に・・・。

 1996年9月、私はエベレスト無酸素登頂を目指していた。前年の春までに8000m峰 4座の無酸素登頂に成功し、95年の秋には世界第3位の高峰カンチェンジュンガ(8586m)の無酸素登攀で8400mまで到達していた私は自信満々だった。カンチェンジュンガでは、一緒にアタックした他のメンバーの不調により、登頂を諦めて共に下山していたが私自身は登頂出来ていたと思っていただけに尚更だった。エベレストのパートナーにはシェルパのロブサン・ザンブーを選んだ。当時、彼はネパールでは最高のシェルパの一人だった。

 カンチェンジュンガ登山で初めて知り合い、登山中に私達は意気投合した。私より10歳近く年下の彼は、私を兄のように慕ってくれた。カトマンドゥのレストランで不良グループと喧嘩になり、ひとりで7人をKOしたり、チベットの5000mの雪の上でバック宙したりと暴れん坊だったが、度胸とガッツのある素晴らしい男だった。「小西ダイ(お兄さん)、貴方なら絶対に無酸素でエベレストに登れるよ」既にエベレストを無酸素で3回登頂している彼は笑顔で私に言った。

大雪崩が猛烈なスピードでやってきた
 8月下旬、BC(ベースキャンプ)入りした私達二人は余り天候が良くないなかを、他の外国隊と一緒に順調に高度を稼いだ。そして運命の日、9月21日、私達は韓国隊のサーダー(シェルパ頭)1名とフランス隊のメンバー1名と共に4名でエベレストの最終キャンプ、サウスコル(7920m)を目指した。10分ほど遅れて出発した私は、先行する3名より15メートルほど下を登っていた。
 午前10時、標高7600m地点、上からの強風にフードを被って下を向きがちに登っていた私は、突然「ピーッ!」という鋭い指笛の音を聞く。すぐ、上を見た私はダッシュするロブサンを見た。そしてその上方、8000m地点から大雪崩がこちらに向かって猛烈なスピードでやってくるのが見える。直撃されるっ! 瞬時に悟った私は2メートルほど右斜め上にある3メートル位のハングした 氷壁に駆け登った - そこしかなかった。

すぐそこにいた3人が消えた
 登りながら「オマー、オマー」とラマ経のお祈りを2回唱える。これがこの世で出す最後の声になるかもしれないと思いながら・・・。 氷壁にへばりついて2秒ほどして私の上方を奇跡的に大雪崩が通過していく。窒息しそうになりながら耐える。この間、約9秒。雪崩が落ち切って氷壁の縁から上を見た私は、すぐそこにいた3人が消えた事を知った。
 彼らは大氷壁を6600m地点まで1000m落ちたのだろう。すぐに、下降を開始する。途中、頂上付近を見上げると強風が渦巻いている。「なんでっ、なんでロブサンを死なすんだっ!」― 心のなかで絶叫する。デブリ(雪崩の雪が溜まった所)に着いた私は、6500mのC2(第2キャンプ)から駆けつけていた私達のコックに聞いた、「ロブサンはいるのか」。「小西ダイッ!ロブサンいないよう。いないよう」泣き叫びながら抱きついてきた彼の言葉を聞いた私は手に持っていた無線機を思いっ切り雪に叩きつけた。

死をかけて雪崩を知らせてくれた
 韓国隊のサーダーの遺体は、仲間のシェルパ達が泣きながら引きずり降ろしている。フランス隊のメンバーの遺体は降ろす人間がいないので、私一人で腰の安全ベルトをつかんで雪の斜面を150メートルほど引きずり降ろす。2回目の雪崩がきたら、埋まってしまうから・・・。この日と翌日の二日間にわたり捜索したにもかかわらず、ロブサンの遺体は発見出来なかった。血に染まった彼のブルーのフェイスマスクのみが見つかった。雪崩が出たとき、ロブサンは手袋を脱いで指笛を吹いて私に知らせてくれた。誰もが自分が逃げるのに精一杯の死と生の狭間でみせた彼の心に私は泣いた。

 登山を中止してカトマンドゥに戻った私は、彼の妻と4ヶ月になる娘、そして彼の父親に全てを話した。

 「小西ダイ、俺たち二人で8000m峰全部、無酸素で登ろうよっ!俺たちなら出来るよ!」「俺はシェルパで初めて8000m峰14座全部登りたいんだよっ」― 彼の言葉は生還した私の胸に永遠に残る。そして彼のような鋼の魂を私も持ち続けることを彼に誓う。
 あれから6年 - ロブサン・ザンブーは今もエベレストの雪のなかに眠っている。



■バックナンバー
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(1)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(2)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(3)
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世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(17)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(18)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(終)

■著者紹介

小西浩文(こにし ひろふみ)
1962年3月15日石川県生まれ。登山家。
■登山歴
1977年 15歳で本格的登山を始める
1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂
1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂
1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録
2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中
☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ
☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず
■その他
1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演
1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー
1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演
1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演
1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000