- 第6回 -著者 小西 浩文


南米の最高峰アコンカグアへ
 強風の中、雪煙が上空を舞う。
 コバルトブルーの蒼空を雲が、猛スピードで駆け抜けてゆく。
 あと、高度差130メートル位か。私の一歩後ろを登ってくる、西田敏行さんを振り返る。
 2000年12月14日午後6時。此処は南米アルゼンチン、北米、南米両大陸最高峰のアコンカグア(6,960m)の6,830メートル地点。遥か遠くには、太平洋が望める。

 素晴らしい、本当に素晴らしい景色。18年間、殆どヒマラヤの8,000メートル峰のみに集中して、パミール、天山、冬のアラスカのマッキンレー、ケニア山、キリマンジャロの大氷壁等も登ってきたが、38歳にして初めて来た南米は、私にとって最高であった。
 マイアミからカリブ海を越えて、南米大陸に入って、飛行機から眺めると無限とも思える程の、広大な大陸が眼下に広がる。
 この大陸を舞台に思いっきり暴れてみたい。生存本能、闘争本能、征服欲、と原始的な本能が人の何倍も強い私の根幹に、しびれるくらい訴えてくるものがこの大陸にはあった。強烈なエネルギーを感じさせるこの大地。これは、サッカーや格闘技など、人間の本能に直結する行為には、最高の土壌であろう。

俳優、西田敏行さんを登らせる
 今回、私には大きな使命があった。先ず、国民的俳優である西田敏行さんを、アコンカグアに登らせる事。そして、それを撮影、サポートするテレビのスタッフをも登らせる事。  その彼らをリードし、助ける日本人登山家達、そして現地で雇用したアルゼンチン・スタッフ達。この仕事に携わる全員を、登山、撮影の目的を果たして、尚且つ、ケガ一つなく、下界に戻すことが私の仕事であった。

 この非常に難しい仕事のオファーは、1月に西田さんのマネージャーである小林保男さんから戴いていた。1985年の約1年にわたる映画「植村直己物語」の撮影に参加した私は、主役を務めた西田さんと小林さんと、撮影が終わった後も付き合いが、ずっと続いていた。

優秀な登山家を集める
 このアコンカグアはテレビ朝日の特別番組である「ネイチュアリング・スペシャル」の企画で、制作はドキュメンタリー番組の老舗である、ドキュメンタリー・ジャパンが行うという事で、1月中にディレクター達と会って、話しはドンドン進んでいった。
 この仕事を引き受けるにあたって、先ず私が必要としたのが、優秀な日本人登山家達であった。これには条件があって、人の面倒を見れるという事が前提になる。自分が登るだけでなく、他人に対して、思いやり、優しさ、そして厳しさを持ち、豊富な高所経験と判断力を持っている実力が、絶対保証付きの登山家となると、当たり前だが極めて限られてくる。

 そういう現実の中で、私を登山隊長として、私の元に優秀な6名の登山家を集める事が出来たのは、極めて重要なことであった。これは二人一組で、三組あれば予想される様々な事態にも、対応できるだろうという、私の読みであった。私以外のこの6人の隊員達は、各々がそれぞれ強烈な輝く個性を放っていた。

 「君等は、まさしく七人の侍だよ」と、西田さんに言わしめた
 年齢順に紹介すると、
宇佐美栄一(35歳・当時)
名古屋の出身で、山岳カメラマンであり、山岳雑誌の「山と渓谷」でもっとも出番の多いカメラマンであった。当時、私のスポンサーであった会社の仕事で、私を撮りに初めてネパールに行き、一緒に6,000メートル峰の冬季登頂を行った。アコンカグア出発前に、西田さん、小林さんと一緒に行ったネパールのトレーニング山行では、私のアシスタントを務めてくれた。非常に陽気でドライな男で仕事は徹底している。

奥田仁一(34歳)
伊勢の出身で、関西大学山岳部OBの彼は、カンチェンジュンガ(8,586m)とチョーオユー(8,201m)を登頂しており、カンチは睡眠用酸素のみで登頂し、チョーオユーは無酸素登頂に成功していた。
カンチェンチュンガ登頂の際、帰路ビバークとなり、2名の隊員は遭難死して、他の登頂隊員2名と生還したが、手足の指10本と鼻の一部を凍傷で失った。非常に喧嘩っ早いが、男気のある、権力にも、暴力にも、金にも媚びない男である。

品川幸彦(32歳)
群馬の出身で、単独で7,000メートル峰5座に登頂し、8,000メートル峰は、ガッシャーブルム1峰(8,068m)とガッシャーブルム2峰(8,035m)に連続無酸素登頂している。日本では春夏秋は尾瀬の山小屋で、冬は谷川岳のスキー場で働いていた。一般の日本人が考える山男のイメージそのもので、素朴で寡黙な外見をしているが、中身は非常に激しいものを持っていて、一本気な素晴らしい男であった。この登山隊の中でも1,2を争う実力の持ち主である。

中村和貞(27歳)
神奈川県足柄の出身で、東京農業大学山岳部のOBである。外見は、まさしく足柄山の金太郎で、奥田と一緒にカンチェンジュンガに行ったが、一次隊の事故で、二次隊のアタック隊員であった彼は、登頂を断念して、その後、チョーオユーとアマダブラム(6,816m)とニンチン・カンサ(7,100m)に奥田と登頂していた。高校時代は砲丸投げの選手で、ボッカ(注:荷揚げ)も、岩登りも、すべてに強い登山家で、鍛え上げられた、素晴らしい肉体をしている。エキサイティングでシンプルな男であった。

加藤慶信(24歳)
山梨の出身で、明治大学山岳部のOBである。戦国武者のような風貌を持ち、マナスル(8,173m)とリャンカン・カンリ(7,531m)に登頂している。都会では大人しいが、山ではギャグを連発してくれる。だが極めて誠実で、真面目で、素直な、暖かい心を持つ素晴らしい人間で、第一級の登山家であり、度胸があって滅法強く、アコンガクアでは、彼は最後の修羅場で切り札となった。

砂川辰彦(23歳)
沖縄出身で、関西学院大学山岳部のOBで、登山隊では最年少である。今回のメンバーでは唯一、私と面識が無かったが、奥田の強力な推薦で登山隊に入った。マッキンレー(6,194m)の登頂者で、国内の山の経験はかなり積んでおり、彼には、今後の日本の登山界の発展を考えて入ってもらった。素朴な外見をしているが、極めて真面目で、頑固で、義理固く、辛抱強くて、人生を考えすぎるくらい考えている男である。

そして、私を含めたこの7人の登山家達は、後日、西田さんをして言わしめた言葉、「君等は、まさしく七人の侍だよ」と、いう言葉通りの働きをすることになる。



■バックナンバー
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世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(終)

■著者紹介

小西浩文(こにし ひろふみ)
1962年3月15日石川県生まれ。登山家。
■登山歴
1977年 15歳で本格的登山を始める
1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂
1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂
1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録
2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中
☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ
☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず
■その他
1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演
1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー
1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演
1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演
1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000