- 第12回 -著者 小西 浩文


西田さんに生気が蘇ってきた
 「西田さん!苦しいですかっ?」 「酸素ボンベを外した方が、楽かも、しれない。」
 西田さんの言葉にハッと気付いて、酸素ボンベを、再び、新しいものと交換する。どうやら、先程交換したボンベからは、ちゃんと酸素が出ていなかった様で、少しずつ、西田さんに生気が蘇ってくる。途中、シリモチをついた西田さんが、そのままスベリ台を滑り降りる様にガラガラと下り出した。これは、良いアイディアだった。高価なサロペットは、ボロボロになるだろうが、もう、そんな事は構っていられなかった。風が、増々強くなってくる。陽も昏れた。ヘッドランプを出すが、手袋を外してセットするのが、寒気の為、キツい。6,600m辺りの稜線まで降りたが、そこが、極端な強風が、吹いている場所だった。

「西田さん、意識は、はっきりしていますかっ?」「大丈夫!」
 あまりの風に西田さんが、歩けない。登山隊4名で、前から引っ張り、横から支え、私は、思いっ切り、ロープを引っ張る。途中、西田さんが、強風に耐えられず、転倒する。支えきれず、全員が、転がる。風で飛ばされた、小石、砂が、バチバチ、顔に当たる。窒息しそうな程の風の中、私の胸を、様々な思いがよぎる。
 「西田さんが、歩けなくなったら、どうする? ビバーク(不時露営)は? ビバークは、問題外! 明朝まで持たないだろう。担げるか? 西田さんが、身に付けている服装、靴、酸素ボンベ等を含めると、100kg程か? 100kg担いで、このルートを降りれるか?」
 何回も、西田さんに確認する。「西田さん!眼は見えていますか?」 「見えている」 「手の指と足の指の、感覚ありますか?」 「ある」 「意識は、はっきりしていますかっ?」  「大丈夫」 先程から、私の後ろにいる奥田は、一言も、しゃべらなくなっている。彼のヘッドランプの、電池は、切れていて、腕を組んだまま、降りている。カンチェンジュンガ登頂の際、失った鼻の先端、手指、足指が、限界にきているのか、手袋を外して、電池の交換も、もう出来ないのだろう。宇佐美は、片眼が、見えなくなっているようだ。高度障害か、強風で、眼球をやられたのだろう。パニックになりかけているのか、独りで、どんどん先行し出す。「宇佐ちゃーんっ!」大声を張り上げて、呼び止めようとするが、止まらず、はるか向こうに行ってしまう。

生きるか死ぬかの修羅場で、人は本性を出す
 もう自分の身を守るのが、精一杯なのだろう。唯一、加藤は、極めて、しっかりしていた。私は、西田さんを後ろから、確保しながら降り、加藤は、西田さんの前を降り、こちらをむきながら、西田さんの足場を確保していた。こういう、生きるか死ぬかの修羅場となると、人は、その本性を出す。快適な、東京では、決して、出ない本性が、むき出しになる。
 やっと、ロープの必要の無い所まで、降りて来る。ロープをほどくが、その厚さ6mm、30mのロープを担ぐ力は、もう私にも、加藤にも、残っていない。
 西田さんを励ます。「もう少しですよっ!西田さん」 「ああ」 もう皆、限界なのだろう。はるか遠くに最終キャンプから、合図を送ってくるヘッドランプの光が見える。

西田さんは、泣いていた。「小西ちゃん!みんなっ!助けてくれて有難う」
 午後11時半、最終キャンプに到着する。先に到着していた、スタッフ達も、ひどい有様だった。各テントで、お湯を沸かして、手指等を温めている。西田さんをテントに送り届けて、私と加藤は、思いっ切り、抱き合った。私は、心底、加藤に感謝していた。百戦錬磨の強者達が、もう自分を守るのに精一杯の極限状態で、彼は、最後の最後まで、西田さんを助け続けた。
 加藤慶信、彼がいないと、この壮絶な、修羅場を切り抜けられたかどうか。
 泥の様に眠った翌朝、外は、吹雪だった。西田さんのテントに全員で、行く。
 西田さんは、泣いていた。「小西ちゃん!みんなっ!助けてくれて有難う。本当に助けてくれて有難う。」撤収を決めて、全員で、昼過ぎに降りる。雪は、止んで、蒼空が、広がっている。眼下の、アンデスの、高峰を眺めながら、私達は、ゆっくりと降りた。誰かが叫ぶ。「此処が、俺達の生きる世界だよっ!」

頼むから、頼むから、みんなっ、山で死なないでくれっ!
 ベルリン・キャンプで、一泊した翌朝、西田さんと、スタッフ達は、ベースキャンプに降り、それに宇佐美、砂川が付き、凍傷がひどい奥田は、メンドーサまで、行くことになった。残る、品川、中村、加藤、私は、撤収をしつつ、降りることとなる。
 アコンカグアで、全員が、顔を合わせるのは、これが最後となる。西田さんが、出発する前、登山隊全員が、集まる。西田さんが、話し出す。「みんなっ、本当に助けてくれて有難う。みんな、俺に1つだけ約束してくれ。みんなは、これからも、山に登り続けるだろう。15年前の「植村直己物語」の撮影の時に一緒だった登山家達は、その後、5人、山で死んだ。頼むから、頼むから、みんなっ、山で死なないでくれっ。お願いだから、山で死なないでくれっ。俺は、この中の一人でも、死んだら、辛すぎるよっ!」
 泣きじゃくりながら、話す西田さんの言葉は、強く、私達の胸を打った。

 私達のアコンカグアは終わった。

 あれから3年、宇佐美栄一は、元F1レーサーの片山右京と共に8,000m峰に通い続けている。
 奥田仁一は、一時期、山を離れかけたが、やはり、自分の生きる世界は、山だと、確信したのだろう。今年も、8,000m峰に行く。
 中村和貞も、やはり、8,000m峰に行き続けている。
 加藤慶信は、たて続けに、8,000m峰に登頂して、いまや、日本の若手クライマーのエースに成長した。
 砂川辰彦は、アコンカグアの後、一年程して、山は止めて、司法書士の道を歩きだした。

 品川は…好漢 品川幸彦は、アコンカグアの翌年、2001年秋にネパールのダラウギリI峰(8,167m)東壁をアタック中に仲間2名と共に、消息を絶った。アコンカグアが、終わってから、10ヶ月後の事だった。未だに彼の身体は見つかっていない。

 しかし、七人の侍が、共に過ごした、長く、辛く、厳しく、そして、楽しかった日々の思い出は、6人の、胸の中に永遠に残るだろう。



■バックナンバー
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(1)
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世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(18)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(終)

■著者紹介

小西浩文(こにし ひろふみ)
1962年3月15日石川県生まれ。登山家。
■登山歴
1977年 15歳で本格的登山を始める
1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂
1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂
1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録
2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中
☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ
☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず
■その他
1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演
1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー
1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演
1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演
1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000