- 第8回 -著者 小西 浩文


アルゼンチンへ
 メラピークのトレーニングと撮影を終えて、10月下旬にネパールから、宇佐美とともに帰国した私は、アコンカグアの準備のラストスパートを開始した。もう既に2トン近い隊荷は、9月上旬に、品川、加藤、砂川が中心となって、他のスタッフとともに梱包してアルゼンチンに向けて出荷している。
 11月上旬、登山隊は、約28時間のフライトの後、アルゼンチンに到着した。ヴエノスアイレスでは、2泊のみで、アコンカグアの麓のメンドーサに向かう。洗練された都会のヴエノスと違って、メンドーサは、緑が多い落ち着いた街である。これは良い所だと思ったのも束の間、私を待っていたのは、メンドーサにある、今回のアコンカグアの現地エージェントの<アイマラトレック>との、うんざりする様な話し合いであった。

ディレクターがブチ切れそう
 スペイン語が話せるドキュメンタリー・ジャパンのディレクターが、夏に2回、計2ヶ月間、南米でロケハン、ミーティングを行っていたにも関わらず、話はかなりズレていた。先ず、入山からして、今シーズンは、雪が多いので、まだベースキャンプのホテルも、オープンしておらず、誰もベースキャンプとなる、プラサ・デ・ムーラス(4000m)さえにも行っていないとの話である。入山は、可能なのかどうか確認しても、ミューラ(ロバ)は不可能だが、ポーターは可能かもしれない、が、確かではない・・・云々。輸送には、軍隊のヘリコプターを使えと、やたらとヘリのチャーターを勧める。どうも我々相手に駆け引きをしていて、最後はドキュメンタリー・ジャパンのディレクターがブチ切れかける様な話し合いとなる。

「俺達の生きる世界」に入る
 メンドーサで3泊滞在するが、連日15時間以上の徹夜のミーティングとなる。何とか、エージェントと話をまとめて、ベースキャンプへのキャラバンのスタート地点となる、プエンテ・デル・インカに移動する。
 いよいよ、キャラバンの開始である。初日から、予想以上の強風の中を歩く。メンドーサでは、半袖だったのが、いきなり冬山完全装備となる。ネパールのトレッキングでは、全く余裕の無かった西田さんも、我々と合流する前に、3週間、南米大陸を北から南に縦断してきて、4000メートル以上で撮影を行ったせいか、快調である。登山隊隊員は、全員が、南米は、初めてで、成田出発前から盛り上がっていたが、山に入ると盛り上がりつつも、やはり顔が引き締まり、雰囲気が変わる。私も含めて「俺達の生きる世界」に入ったからだろう。まるで水を得た魚のように、野生の動物が檻の中から大自然に解き放たれたように。

チーフ・ガイドを解雇
 キャラバンは、順調に進んだが、4日目に数十人いるアルゼンチン・スタッフのリーダーであるチーフ・ガイドを解雇する。彼は初めから、ミューラの輸送等でインチキをやっていて、それが発覚する度に、厳重に注意してきたが、今度インチキをやったら解雇するよ、と警告していた。そして最後のゴマカシが、発覚した時は、自ら、山を降りる羽目となった。この件で、一気にアルゼンチン・スタッフは、引き締まる。大らかで明るく陽気だが、その反面、かなりいい加減なところがある、ラテン気質は、私は決して嫌いではない。しかし、今回の様な、一億円以上のお金をかけて、何十人という人間の生命が、かかる様なプロジェクトでは、当然だが、私は、決して妥協は、しない。
 途中、砂川が体調を崩して、奥田が付き添い、プエンテ・デル・インカまで降りるという出来事もあったが、何とか順調にベースキャンプに到着する。2日後には、砂川も元気になって、ベースキャンプに入ってきた。

厳しさの中に楽しさや笑いがあり、楽しさの中に厳しさがある
 ベースキャンプからは、アコンカグアが、右上方に聳えている。まるで、スキーリゾートの様な、洒落たホテルがあり、快適な所である。この頃になると、登山隊は、まるで一つの生き物の様に機能しだしていた。登山隊には様々なタイプがある。軍隊の様な縦社会の登山隊から、各自がバラバラで、己の責任のみで登るというチームなど、色々あるが、概ね、日本の登山隊は暗く閉鎖的であるという印象を私は持っている。それは、私が嫌いなものの一つであった。私は、30代後半から、登山隊で、自分がリーダーである場合、厳しさの中に楽しさや笑いがあり、また楽しさの中に厳しさがある、という山登りを心掛けてきた。そして何よりも、先ず自分が、先頭で行くという事を実行してきた。何事もリラックスしていなければ、100%の力は出せない。構えれば構える程、気は滞る。心の下作りを常に忘れず、此処一番で、思いっ切り集中すれば、良い。私は、常々そう感じている。
 ベースキャンプで、一週間滞在して、5000メートルまでの高所順応をこなして、上部に移動する日が、来た。ベースキャンプ入りして、当初は不調だった西田さんも、調子は上がってきている。出発する日の朝、スタッフ全員で、ミーティングを行う。その場で宇佐美、奥田を副隊長とする旨を発表した。今日から上部に上がって、おそらくアタックが、終わるまでは、ベースキャンプに戻ってこないだろう。私は、軽く丹田に気を入れた。



■バックナンバー
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(1)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(2)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(3)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(4)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(5)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(6)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(7)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(8)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(9)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(10)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(11)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(12)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(13)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(14)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(15)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(16)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(17)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(18)
世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指す私の夢(終)

■著者紹介

小西浩文(こにし ひろふみ)
1962年3月15日石川県生まれ。登山家。
■登山歴
1977年 15歳で本格的登山を始める
1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂
1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂
1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録
2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中
☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ
☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず
■その他
1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演
1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー
1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演
1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演
1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000