![]() ![]() ![]() 第1回 著者 節田 重節
今から50年前の1970(昭和45)年5月11日、日本山岳会エベレスト登山隊の松浦輝夫、植村直己両隊員が、日本人として初めて世界最高峰エベレストの登頂に成功した。さらに翌日の12日、第2次アタック隊の平林克敏、シェルパのチョタレイも登頂に成功、英国、スイス、中国、米国、インドに次ぐ世界で6番目の登頂国となった。 頂上に立った植村さんとは、その後、山だけでなく極地でも大きな冒険を成し遂げて世界的に評価され、アラスカのマッキンリー(現デナリ)で遭難後、国民栄誉賞を受賞した、あの植村直己さんである。 登頂の瞬間、それまでザイルのトップを歩いてきた植村さんが立ち止まり、セカンドの松浦さんに先頭を譲ったというエピソードがある。ここまで一緒に頑張ってきた、7歳年上の松浦さんに対する植村さんらしい気遣いだった。 ネパール・ヒマラヤのクーンブ・ヒマールに君臨する世界一高いエベレスト(8848m)だが、イギリス統治時代のインド測量局は当初、この山に「PeakXV」という仮称を付けていた(1849年)。この山はネパールの中心であるカトマンズ盆地やその周辺からは見ることができず、山名がなかったからである。ところが1852年、この山が世界最高峰であることが判明したため、1865年、インド測量局初代長官であったジョージ・エヴェレストの名を冠することを決定したのだった。彼はのちに「サー」の称号を贈られた探検家でもあり、数理地理学者である。 なお、チベット側には「チョモランマ(大地の母神)」という名前があり、その後、ネパール側も国威発揚のために「サガルマータ(世界の頂上)」と名付けた。したがって、世界最高峰は3つの名前を持っているわけである。 ![]() 戦後の1949年、ネパールが鎖国を解き、舞台はネパール側に移った。英国だけでなく各国入り乱れての初登頂レースとなったが、ついにエベレストがその頂上を明け渡したのは、ジョン・ハントを隊長とする1953年の英国隊である。5月29日、エドモンド・ヒラリー(ニュージーランド)とテンジン・ノルゲイ(シェルパ)の二人が、世界の頂点に立ったのである。 初登頂から70年弱、現代の世界最高峰は商業登山(公募登山)が花盛りで、初登頂ルートの南東稜を数珠つなぎで登る登山者の写真を見ると、正に隔世の感がある。 ■バックナンバー ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■著者紹介 節田 重節(せつだ じゅうせつ) 日本ロングトレイル協会 会長 1943年新潟県佐渡市生まれ。中学時代に見た映画『マナスルに立つ』や高校時代に手にしたモーリス・エルゾーグ著『處女峰アンナプルナ』を読んで感激、山登りに目覚める。明治大学山岳部OB。㈱山と溪谷社に入社、40年間、登山やアウトドア、自然関係の雑誌、書籍、ビデオの出版に携わり、『山と溪谷』編集長、山岳図書編集部部長、取締役編集本部長などを歴任。取材やプライベートで国内の山々はもとより、ネパールやアルプス、アラスカなどのトレッキング、ハイキングを楽しむ。トム・ソーヤースクール企画コンテスト審査委員。公益財団法人・植村記念財団理事など登山・アウトドア関係のアドバイザーを務めている。 |