著者 節田 重節


山岳部の先輩
 私の山岳部の一年先輩は5人いて、その内の一人が植村直己さんだった。
 時は昭和30年代後半で、現在の中高年を中心とした登山ブームとは異なり、若者たちが末はヒマラヤを目指して、がんがん登っていた時代である。しかも、「シゴキの明治」として、その訓練の厳しさでつとに知られていた山岳部であった。
 後年、単独で数々の大冒険を成し遂げた植村さんだけに、「さぞおっかない先輩だったでしょうね」とよく聞かれたことがある。「とんでもない。世界のウエムラさんには失礼ながら、ドンくさいぐらい目立たなく、優しくて、臆病な先輩でしたよ」と答えると、ほとんどの人がびっくりする。

立山で怪談話
 あれは私が2年生で、植村さんが3年生の時だったと思う。所は立山・弥陀ガ原の追分付近。時は6月の入梅のころ。テントの外は雨がしとしと。おまけに当時の明かりはロウソクのみ。格好のシチュエーションに、誰言うとはなしに怪談が始まった。寝袋の上に横になり、各自それぞれの持ちネタを話したが、いちばん熱が入っていたのが植村さんで、但馬弁交じりで訥々と語る怪談は、テント内外の雰囲気と相俟って迫力満点。いよいよ佳境に入る----。
 とその時、突然、同僚のNさんが植村さんに抱きついた。
 「ギャーッ!」と跳ね起きた植村さん。その驚きようにびっくりしてNさんも「ギャーッ!」。人一倍おっかながりが仕掛け人のNさんだった。

小便一緒に付き合えよ!
 夜も更けてそろそろ就寝という時、なぜか植村さんがもじもじしている。
 「おい、N。小便一緒に付き合えよ」
 なんと植村さん、自分自身の怪談で盛り上がりすぎ、独りで小便に行けなくなって、Nさんを連れションに誘っていたのである。真剣な表情で恐る恐るテントの入り口を開け、しとしと雨が降り続く闇の中へ、連れ立って飛び出していく二人の後ろ姿を、われわれは笑いをこらえながら見送ったのであった。

 後年、海外の冒険から帰った植村さんを囲んで一杯やっていた時、酒の肴にこの時の話をしたところ、「なに言ってんだよお、ウソだよ。オレじゃない、Nだよ、N」と口を尖らせて否定した植村さん。あれだけの大冒険を、たった独りで成し遂げた植村さんの勇気には心底頭が下がるが、素顔の植村さんは、実はけっこうおっかながりだったというのは、微笑ましい話ではないか。もちろん、臆病なくらい慎重に準備し、あらゆる状況に対応できる適応力を身につけ、念には念を入れて、しかる後に冒険に立ち向かった彼の、細心かつ大胆な行動は、こんな「臆病さ」に裏打ちされていたのであろう。

 その植村さんが、厳寒のマッキンリーに消えて早20年。年月とともに思い出もだんだん風化していくものだが、このエピソードだけは、いつまでも残っていくことだろう。


■バックナンバー
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植村直己さんは臆病だった!?

■著者紹介

節田 重節(せつだ じゅうせつ)
株式会社 山と溪谷社 取締役編集統括本部長
1943年 新潟県生まれ。明治大学法学部卒業
1965年 株式会社 山と溪谷社 入社
『山と溪谷』編集長、山岳図書編集部長などを経て現職。
明治大学山岳部OB、日本山岳会会員、植村直巳記念財団評議員