![]() ![]() ![]() - 最終回 -著者 小西 浩文
「95年 秋 カンチェンジュンガ 8586」 そんなに待つと、降りれなくなるよ! ![]() どちらにしろ、彼に一人で降りてもらう事は、この場合、選択出来なかった。誰が、彼について降りてもらうか?これは、隊長の私としては、答えに窮した。私は言った。「全員で上り続けるか、全員で降りるかだな。」 シェルパを連れてきていれば、間違いなく松原について降りてもらっただろう。これが、メンバー4人でアタックしたリスクであった。「俺は、押したい(登り続けたい)ですね。」 と、棚橋。「ここで、マッチャン待つ事出来るかな?」戸高が言う。「登ってここに帰ってくるまで5時間近くかかるぜ。8400mのここでバテテいる松原が、そんなに待つと降りれなくなるよ。」私が言う。 少しして、松原が言う。「前言を翻すようで申し訳ないが、もう少し、行ける所まで行ってみます。」「もし行くのなら、行ける所までなんていうあいまいな気持ちではだめだ。」棚橋は言下にそう言った。「下りが、かなり厳しいことになるけれど、マッチャンがそう言うならがんばろう。」戸高が嬉しそうに言う。これは、問題外であった。松原は、自分の本能と直感で、リミットを悟って下りたいと言っているのに、他のメンバーの気持ちを気遣って自分の意見を翻していた。 私の目には、松原は完全に赤信号であった。「一度下りたいと言ったのを、皆の意見を聞いて変えたのだから、やはり絶対に下りるべきだ。」最後に私はそう決断して言った。 ノーロープで下降 50mの6mmロープを2本連結して、私が確保して一人づつ下り始める。8350mのコルに、全員無事戻る。最後から下りた私が、デポしていた自分の荷物をパッキングするために、100mのロープの末端を松原に渡す。「松原、ロープ持っててくれる?」「はい。」松原が、返事をして私はロープを渡した。 暫くして、「あっ!」松原が叫ぶ。見ると、松原はロープから手を離していた。ロープは、稜線の反対側の北壁に消えていく。「なんで、手を離したんだよっ!」 「いや…」松原は、絶句していた。もう、ロープは無い。ノーロープで全員で下り出す。なんとか、途中でフィックスロープを1本見つけて掘り出してそれで確保をする。まず、松原を先に下ろす。 しかし、途中で松原がスリップする。確保していた戸高が、止めきれずにすぐ下にいた棚橋に激突する。棚橋のダウンジャケットが裂ける。そんな事を繰り返しながら、フィックスロープの最上部までなんとか降りる。 そこからは、各自で最終キャンプまで戻る。最終キャンプに着く前に、松原が棚橋に言う。「すまんな、せっかくのチャンスを。」「こんなに疲れているとは思わなかった。行ったら自分も戻ってこれなかったかも。」と、棚橋がぽつりと言った。 再アタックも失敗 翌日全員で無事ベースキャンプに帰り着く。1週間の休養後、私たちは軽い凍傷になった松原を残して、10月28日と29日に、3人がそれぞれ再アタックしたが、強風に遮られていずれも失敗した。結局、あの日4人で登った場所が、私達の最高到達点となったのだった。 最後に、荷下げにキャンプ1に登る。ばかデカイ荷物を担いで下り出すころには夕暮れとなっていた。真っ赤に燃えるカンチェンジュンガに、軽く頭を下げて私は、眼下の氷壁の暗闇に身を沈めた。 私は行く、ひたすら天の上を目指して あれから9年、戸高は国内で登山ガイドをやっている。棚橋は、たまに海外でガイドをやり、あるいは国内でガイドをしている。松原は小淵沢に移り住んで、他の2人と同じようにガイドをしている。 私は、といえば…このカンチの翌年、ロブサン・ザンブーと2人でエベレスト無酸素登頂を目指し、ロブサンは、私の命を助けながら行方不明となった。それからも8000m峰に登り続け、最愛の妻を亡くし、今月3月には42才となる。 今日まで、怪我ひとつせずに、山を登り続けてこれた私は、つくづく幸運な男だと思う。人は、無限の可能性を持ち、無限の絶望を持つ。人は永遠に孤独であり、そして、人に助けられ、人を助けてゆく。 私は、行く。 ただ、ひたすら天の上を目指して。(完) 1年7ヶ月の間ご愛読ありがとうございました。 3月20日に氏の講演会が予定されています。詳細はこちらへ。 ■バックナンバー ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■著者紹介 小西浩文(こにし ひろふみ) 1962年3月15日石川県生まれ。登山家。 ■登山歴 1977年 15歳で本格的登山を始める 1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂 1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂 1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録 2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中 ☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ ☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず ■その他 1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演 1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー 1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演 1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演 1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000 |