![]() ![]() ![]() - 第13回 -著者 小西 浩文
7800mの最終キャンプで 目の前に、深紅の山々が、広がる。 1リットルのお湯を作るのに、とてつもなく時間がかかる。沸点は、60度位だろう。 酸欠を防ぐ為に、テントの入り口のジッパーは、完全に開け放したまま炊事をする。身動きするのも窮屈な、狭いテントの中で、火の点いたガスコンロと、その上の雪の入ったコッヘル(鍋)を、ひっくり返さない様、気をつけながら、明日の準備をする。 ![]() 私のパートナーである、3人の男達はいずれも、歴戦の強者ばかりであった。 戸高 雅史 副隊長である、戸高 雅史(当時33歳)。彼とは、1993年に、共にパキスタンのガッシャーブルム2峰(8035m)に、無酸素登頂していた。大分の出身で、筋肉質の屈強な身体の持ち主である彼は、気は優しくて力持ちを体現する男で、元々、高校の数学教師であった。が、ヒマラヤに打ち込む為に、退職してプロの登山ガイドになり、ナンガパルバット(8125m)とブロードピーク(8051m)に、無酸素登頂していた。特に、カンチェンジュンガ直前に登ったブロードピークでは、3名のメンバーで縦走するという第1級の成果を上げていた。私と同学年である。 棚橋 靖 棚橋 靖(当時31歳)。岐阜の出身で、学習院大学山岳部のOBである。私とは、前年にK2(8611m)にトライしていた。90年に、チョーオユー(8201m)に登頂しており、TV朝日の、ニュースステーションで、数年に亘って放映されていた、世界名峰登頂シリーズでは、常にトップで登頂している、第1級のクライマーである。やや猫背で痩せていて、ボクサーの様な顔つきと体型をしており、筋の通らない事は、決して妥協しない男である。ニュースステーションの仕事以外では、山岳旅行会社のガイドもしており、年中、世界を飛び回っている。 松原 尚之 松原 尚之(当時30歳)。東京の出身で、法政大学山岳部のOBである。大学卒業後は、サッポロビールの営業をしていが、会社の長期休職制度を利用して、徒歩で2名の仲間と共に、南極点に到達している。南極の後は、再び、サッポロビールで働いていたが、95年の春に、日本山岳会のマカルー(8463m)登山隊に参加する為に退職し、マカルー東稜初登攀を成し遂げた。痩せギスの長距離ランナーの様な体型で、温厚そうな外見とは裏腹に、内に激しい情熱を秘めた男である。 彼等3名と、隊長の私、4人の男達は、世界最高所での夜を酸素ボンベ無しで過ごしつつあった。 ■バックナンバー ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■著者紹介 小西浩文(こにし ひろふみ) 1962年3月15日石川県生まれ。登山家。 ■登山歴 1977年 15歳で本格的登山を始める 1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂 1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂 1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録 2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中 ☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ ☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず ■その他 1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演 1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー 1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演 1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演 1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000 |