![]() ![]() ![]() - 第7回 -著者 小西 浩文
西田さんを登らせるのは高所登山の常識からは絶対無理? 今回のアコンカグアで、先ず大問題になったのが、西田さんを7000メートル近い高峰に登らせるという事であった。1985年に38歳であった西田さんは、2000年のアコンカグアでは54歳、そして身長165 センチ、体重94キロと15年前と比べると、極めて太っていて、中性脂肪が並外れて多く、ヘビースモーカーで、大酒飲みであり、運動習慣は一切なく、数ヶ月に1回のゴルフが唯一の運動という事であった。 高所登山の常識から考えると、これは登る事は絶対無理という事になるが、私は二つの事に賭けてみようと考えた。一つは、85年の映画の撮影でみせた、西田さんの集中力と高所順応力。もう一つは、まだ数ヶ月間、時間があるので、トレーニングと減量、そして出来れば高所トレーニングをしてもらうという事である。これに加えて実際の登山では、一日の行動時間を短くして、非常にゆっくりと長い日数をかけて、体重を落としつつ、高所に慣れて、5800メートルより上からは、大量の酸素ボンベを使用して登る、というのが私の考えた作戦であった。 ノーマルシーズンより厳しい登山時期 ただ一つ、引っ掛かっていたのが登山期間である。南半球に位置するアコンカグアのベスト登山シーズンは、12月から2月と言われており、通常、登頂は1月になってから行われている。西田さんのスケジュールの都合上、クリスマスには、日本に戻らなければならず、そうなると撮影のスケジュールと相まって、12月17日迄には登頂していなければならない。私の作ったタクティクスだと、ベースキャンプ以上の登山期間が予備日を含めて、33日間から35日間となっており、それであれば11月中旬までにベースキャンプ入りしている必要がある。果たして、ノーマルシーズンより一ヶ月以上も前に入山して、季節的に問題が無いのかどうか、ディレクターが現地のエージェントに問い合わせをしたが、登頂は可能という事であった。撮影スケジュールと、西田さんのスケジュールを考えると、この期間しかなく、寒気・強風等、ノーマルシーズンより厳しくなる事は間違いなかったが、選択の余地は無かった。 高度・強風・低温との闘い ![]() TV朝日とドキュメンタリー・ジャパンから、高所カメラマンと医師を推薦してくれとの事で、私がオファーを出したのは、村口徳行カメラマンと増山茂ドクターであった。 村口カメラマン(当時43歳)は、日大山岳部OBで、日本で唯一、ムービーカメラマンとしてエベレスト(8850メートル)とガッシャーブルム2峰の8000メートル峰2座に登頂しており、アコンカグアの高所カメラマンとして、彼以外に考えられなかった。 増山ドクター(53歳)は、未踏の7000メートル峰2座に初登頂しており、高所医学の権威としても知られていて、このアコンカグアの後は、一年契約でボリビア大学の教授になる事が決定していた。彼らは私のオファーに参加を快諾してくれ、これは、私にとって非常に心強いものとなった。 NHK大河ドラマの最後の収録を終え、トレーニングにネパールへ 6月に西田さんを含めてミーティングがあり、その場で8月にネパールで高所トレーニングを行う事が決定する。 NHK大河ドラマの最後の収録が終わってから、西田さん、小林さん、私、そして私のアシスタントとして宇佐美の4名で、約3週間の日程で、エベレスト街道を5000メートル付近まで行くという計画である。モンスーン明け前の8月のネパールは、かなり雨が降るが、その反面、花が綺麗で、他の人間も殆どおらず、一種の穴場であった。 西田さんと小林さんが8月末に帰国してからは、私と宇佐美でネパールに残って、私のスポンサーへの写真撮影を兼ねてメラピーク(6450メートル)で、10月中旬までトレーニングをする事になっていた。 西田さんは日本のオジさん達に、エールを送りたいと言った 8月上旬、バンコク経由でカトマンドゥ入りをした私達は、早速、エベレスト街道の拠点であるルクラ空港に飛ぶ。目の醒めるように鮮やかな緑と花のなかを、無事、ペリチェの裏山の4700メートルまで登って、8月下旬、カトマンドゥに戻った。西田さんと小林さんが日本に帰国する前夜、夕食後、私達はホテルのバーで飲んでいた。カウンターの隣に座っている西田さんが私に言う。 「小西ちゃん、俺が、何でアコンカグアの話を引き受けたか、分かる?」 「うーん。年齢的にも7000メートル近い山に登るのは、ラストチャンスに近くなっているという事ですか?」 「うん、それもあるんだけれど、一番大きい動機っていうのは、いま現代の日本のオジさん達って、大変だろう。会社ではリストラに遭い、社会ではオヤジ、オヤジと馬鹿にされて。俺はこれっておかしいと思うんだよ。」 「ええ」 「本来ならば、尊敬されるべき、日本の社会を引っ張ってきたオジさん達が、現実には、そういう目に遭って、皆、元気を失くしているだろう。」 「ええ」 「だから、何つうかな。今、54歳で、背も低くて、太った俺が、バテバテで、疲労困憊して、鼻水垂らしながら、アコンカグアに登る事で、俺は、日本のオジさん達にエールを送りたいんだよ。皆、かんばろうぜっていう。それが、厳しい事がわかっているアコンカグアを引き受けた理由なんだよ。」 「わかりました。西田さん、当たり前ですけど俺は、身体張って、とことんやらせてもらいますよ。」 この時の会話は、アコンカグア登山が終わるまで、何百回も、私の心に蘇ってきた。カトマンドゥのホテルの薄暗いバーのカウンターで、私は誓った。 どんな事があっても、俺は、この男を、絶対、死なさないと。 ■バックナンバー ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■著者紹介 小西浩文(こにし ひろふみ) 1962年3月15日石川県生まれ。登山家。 ■登山歴 1977年 15歳で本格的登山を始める 1982年 20歳でパミールのコルジュネフスカヤ、コミュニズムに連続登頂 1982年 中国の8000m峰シシャパンマに無酸素登頂 1997年 7月ガッシャブルム1峰(8068m)無酸素登頂に成功し、日本最高の8000m6座無酸素登頂を記録 2002年 世界8000m峰全14座無酸素登頂を目指して活動中 ☆ 世界8000m峰14座無酸素登頂記録保持者は現在2人。メスナー(イタリア)とロレタン(スイス)のみ ☆ 89年のハンテングリ登頂により、日本人初のスノーレオパルド(雪豹)勲章の受賞が決定するが、ソ連崩壊により授章式は行われず ■その他 1986年 東宝映画「植村直巳物語」出演 1986年 フジTVドラマ「花嫁衣裳は誰が着る」岩登りアドバイザー 1988年 VTR「最新登山技術シリーズ全6巻」技術指導及び実技出演 1993年 日本TV「奥多摩全山24時間耐久レース」出演 1999年 NHK「穂高連峰の四季~標高3,000 |