![]() ![]() ![]() 第1回 著者 節田 重節
「日本国」という山があるのをご存じだろうか。「ニホンコク」と読み、「山」が付いていない。ユニークな山名から近年、注目されるようになり、地元もその気になって「日本国を愛する会」まで結成されている。これでは右翼団体と勘違いされるのではないかと心配になるのだが------。 名前は立派だが、わずか555mの山で、新潟県の下越地方、山形県との県境にそびえており、別名「石鉢山」ともいう。不思議な山名のこの山の存在を知ったのは、多分30年以上前のことだろう。ずっと気にはなっていたが、正直言って、500m余の低山を登るためにわざわざ新潟県北部まで足を運ぶことをためらっていた。 ![]() ところで、このユニークな山名は、どこからきているのであろうか。一説には阿倍比羅夫(あべのひらふ)の大和朝廷軍が東征のおり、苦戦を重ねながらここまで進出し、この付近の蝦夷(えみし)勢力の平定にやっと成功したことから、誰言うともなく、ここを日本国と蝦夷地の境としたという説。 もう一説は、第32代崇(す)峻(しゅん)天皇の御代、権力者の曽我氏と物部氏の対立が激化、592年、天皇は蘇我馬子の手先によって暗殺される。その結果、天皇の第三皇子として伝わる蜂子(はちこの)皇子(おうじ)は馬子の手から逃れるべく、聖徳太子の手助けで都落ち、丹後国由良から海路、出羽国由良に逃げ延びたのち羽黒山に登り、出羽三山の開祖になった、という。皇子は一時期、「上隠し小屋」(現在の日本国)に隠れ住んだとも伝えられており、また、晩年、この山に登って故郷飛鳥のある未申(ひつじさる)の方角を指差して、「これより彼方は日本(やまとの)国(くに)」と仰せられた、とか。 3つ目の説は江戸時代後期、大代集落の遠藤太郎次なる若者が、山頂の近くの堀切峠で見事な鷹を生け捕り、これを庄内藩の酒井侯を通じて徳川10代将軍・家治公に献上したところ「これは天下無双の鷹なるを以って、捕らえた山は以後、『日本国』と名付けよ」と賞せられた、など諸説あるが、いずれも伝承の域を出ない。 いずれにしても、日本は山国であり、何千何万という山々がある。山名事典などを頼りに、全国の珍山名の山を求めて歩くのも、一興だろう。 ■バックナンバー ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■著者紹介 節田 重節(せつだ じゅうせつ) 日本ロングトレイル協会 会長 1943年新潟県佐渡市生まれ。中学時代に見た映画『マナスルに立つ』や高校時代に手にしたモーリス・エルゾーグ著『處女峰アンナプルナ』を読んで感激、山登りに目覚める。明治大学山岳部OB。㈱山と溪谷社に入社、40年間、登山やアウトドア、自然関係の雑誌、書籍、ビデオの出版に携わり、『山と溪谷』編集長、山岳図書編集部部長、取締役編集本部長などを歴任。取材やプライベートで国内の山々はもとより、ネパールやアルプス、アラスカなどのトレッキング、ハイキングを楽しむ。トム・ソーヤースクール企画コンテスト審査委員。公益財団法人・植村記念財団理事など登山・アウトドア関係のアドバイザーを務めている。 |