- 第427回 -  筆者 中村 達


『パキスタン探検の旅のこと 3』

 いよいよパキスタンの旅がはじまった。右も左もわからず、ただ先輩たちの後についていくだけだったが、慣れていくにしたがって、すこし様子がわかり現地に馴染んできた。若いというのはそれだけで、順化も早かったように思う。
 まず、敬虔なイスラム教徒の人々が祈りをささげるモスクに出かけ、感動しながらも異国の文化を感じ取り始めた。

 砂埃が舞うバザール(市場)の雑踏で、行きかう人々の間を縫って、食料や必要な装備品の買い出しを行った。服装も半袖、半パンツはパキスタンの気候には向いていない、と教えてもらい、現地の人たちに習って、だぶだぶのパンツと長そでのシャツを買い求めた。確かに理にかなっていて快適だった。現地の風土、習慣に従うことが大切だと学んだ。

 覚えたての片言のウルドーで、値引き交渉をはじめた。「日本から来たのか。じゃ、サービスしてやろう」なんていう言葉が返ってきた。みんな親切だった。  また、銀行に出かけ現地通貨に両替をしたのだが、これも交渉でレートが決まった。

 2週間ほどカラチで準備ののち、インダス川の右岸(東側)の砂漠地帯を通って北上した。出発するとき、お世話になったバザールのオヤジが、「昼間は猛烈な暑さだから、夜に走れ!絶えず水を補給しながら走ることだ!干からびて死ぬ前に!」と、本気でアドバイスをくれた。
 夜が明けやらぬ中、インダス川に沿ってひたすら北に向けて走った。荒涼とした砂漠が現れたと思うと、樹木がない岩山が続いた。日が高くなると、気温は50度近くに上がった。車にはエアコンなど付いてはいなかった。窓を開けて走ると熱風と砂塵が吹き込んでくるので、熱さは我慢するしかなかった。バザールのオヤジの忠告が身に染みた。

 路肩に車を止めてガソリンを補給しようと、キャップを回すと熱さでガソリンが噴き出した。アスファルトは熱でスポンジの上を歩いているようだった。日本から履いて行った靴は、接着剤が溶けて底が剥がれてしまった。

 私は運転免許証を持っていなかったので、ナビゲーター役と雑用をすべて任された。バザールで買い求めた、素焼きの大きな壺に水を満たして、足元に置いていた。うっすら湿った壺の中の水は、気化熱で冷たかった。この方法はカラチの自動車修理工場で教えてもらった。時々カップに水を注いで、運転者に渡した。

 あまりの暑さでアドバイスどおり、昼間は寝て夜や早朝に走り続けた。途中の村や町で宿をとり、屋外の網状のベッドで蚊帳を吊って、死んだように眠った。外国人、なかでも日本人など訪れることがほとんどない地域では、珍しいのか大勢の人たちが集ってきた。そのたびに、長老や、区長だろうかリーダーがやってきて、見ず知らずの私たちを歓待してくれた。飲み物や冷えた西瓜をご馳走になった。

 深夜に砂漠で車がスタックして困っていると、通りがかりの長距離トラックが停まってくれ、助手たちが素手で砂をかき出して、車を脱出させてくれた。そんなことは幾度となくあった。どの運転者もとても親切だった。

 砂漠のなかにオアシスがあった。そこは緑が豊かな田園風景が広がっていた。岩陰で用を足して戻ってくると、子どもたちが水を入れたカップを持って、はにかみながら、これで手を洗えと差し出した。子どもたちは笑顔で、私が手を洗うのを見つめていた。
 すべてが初めての経験で、人々との触れ合い、見るものすべてが感動だった。(つづく)

(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト/プロデューサー
安藤百福センター副センター長、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、NPO法人アウトドアライフデザイン開発機構代表理事、NPO法人自然体験活動推進協議会理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。