- 第324回 -  筆者 中村 達


『山岳部員の脱走事件』

 大学山岳部の合宿中に部員の脱走があった、と山岳会の機関誌のコラム欄に書かれていた。彼にとっては、つらくて我慢できなかったのだろう、と想像するしかない。
 昭和40~50年代には山岳部部員の集団脱走事件は、さほど珍しいことではなかった。後を追う上級生がリーダーに「抵抗するとあきまへんさかい、ピッケル持って追いかけますわ!」なんていう物騒なお話もあった。
 その当時、山岳部はキツイ、キタナイ、キケンの3Kの代表のようなもので、とくに新人にとって夏山合宿は地獄だった。夏山合宿を終えると、何人もの新人が一斉に退部するという事態に、私も何度か遭遇した。シゴキ事件なども多発して、社会的な問題にもなった。しかし、山岳部やワンゲルなどの入部者は、後を絶たず盛況だった。

 いま思い返してみると、当時の山岳部はひどいものだった。合宿では食べ盛りなのに、お金がないので朝食は、味噌汁にご飯と少々の漬物。昼は硬いフランスパンにバターを塗って、粉末ジュースで流し込んだ。夕食は肉の入っていないシチューや、カレーもどきだったと記憶している。少量のベーコンかコンビーフ、あるいは魚肉ソーセージが入っていたかもしれない。

 リュックサックは帆布製のキスリングで、パッキングは難しいし、新人の頃は背中の皮がズル剥けなんてこともよくあった。寝袋の中綿は化繊で、その頃は重くて大きかった。ダウンは高価で学生には手が出なかった。ウェアはウールだったが、アンダーは綿だったような気がする。雨具はビニール製で、雨でも降ろうものなら、中はサウナ状態になった。
 粗末な食事と装備で、40~60kgもの荷物を担いで山を登るのだから、景色など楽しんでいる余裕などなかった。早く合宿が終わらないかと、祈るばかりの日々が続いたように思う。脱走したいと思うのも無理はなかった。

 それでもレイチェル・カーソン研究家の上遠恵子さんが、「私たちの若い頃といえば、遊びは山しかなかったです。」と語っておられたように、山登りは若者たちにとって人気のレジャーだった。昭和45年に当時の経済企画庁がおこなった調査によれば、勤労青年のおよそ26%が登山靴を持っていた。
 夏山シーズンともなれば、長野や富山行きの夜行列車は、まるで通勤ラッシュのようだった。京都からでは座れないので大阪まで逆行し、夜行の発駅着席券という優先座席券を確保するのに、昼間から並んだこともあった。
が、つらくても、苦しくても、我慢し続けても、有り余る感動と喜びが登山にはあったように思う。

 もちろん現在の山岳部はそんなひどいものではない。装備や食糧などは、当時とは比べようもないぐらい、飛躍的に改善、改良されている。シゴキ事件なども聞いたことはない。
 しかし、高校や大学の山岳部は部員が集まらず、開店休業や廃部も多い。こんな状況の中で、絶滅危惧種化した山岳部員の脱走事件が発生すれば、部の存続も危うくなる。もちろん、新人が合宿から脱走して一人で下山するのも危険なお話である。

 遊びが多様化したうえに3Kでは、山岳部に入部する理由を探すのが難しい。その一方で、山ガールのブームで、女子の山岳部の入部希望者が増えているらしい。果たして彼女たちをどう指導すればいいのか、新たな悩みも発生しはじめたようだ。

(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト/プロデューサー
安藤百福センター副センター長、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、NPO法人アウトドアライフデザイン開発機構代表理事、NPO法人自然体験活動推進協議会理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。