著者 奥原 宰


大正時代はランプ生活
 私は、上高地で山荘を営んでいる者です。大正時代の終わりに、祖父が上高地に借地してキャンパー向けの売店を始め、その後、山荘となり、現在に至っております。祖父が始めた頃は、徳本峠を越えるしかなかった為、登山者も少なく、国立公園でもなかったので梓川の岩魚や、ニリンソウなど、地元のものを捕って暮らしていたのです。もちろん、電気など無く、ランプの生活でした。

冬でも入りやすくなった上高地
 昭和になり、バスの開通や、登山ブームの波にのり、山荘は増築を続け、現在では150人ほどがお泊まりいただけるようになりました。お客様も、登山者だけではなく、むしろ一般の観光客の方が多くなりました。しかし、到底、自給自足的な生活ではなく、全ての食材や消耗品などを、町から運び、そしてゴミなどは全て町へ降ろしています。下水道もできています。下水代の負担は膨大ですが・・
 11月から4月までは、車が通れないので閉鎖され、現在は、国立公園としての管理もされていない(冬期用トイレの管理はやっています)のですが、釜トンネル上のスノーシェードができて安全になったり、安房トンネルが開通して、歩く距離が短くなった為、多くの人が訪れるようになりました。山荘の管理のため、父と二人で沢渡からラッセルをして、一日でたどり着けなかったことなど、いつでもトレースがある今では夢のようです。わがままで言わせてもらえば、面白くなくなりました。

上高地を人生の終点にするお客?
 営業期間中には、郵便局(お金は扱っていませんが)があったり、立派な診療所があったりで、一見、街にも見えないことはありません。しかし、上高地へ通じる、県道上高地公園線は、雨量が80ミリを越えると、事前規制で、交通止めになってしまい、他に道の無い上高地は、陸の孤島と化すのです。また、野生動物の夜の活動を妨げないように、街灯が無いので、夜は懐中電灯が必要です。そのかわり、星がよく見えます。
 夕方、お着きになるお客さんの為に、街灯が必要なのではという意見もありますが、事前に情報を流すことで、解決できると思います。私は、やはり、上高地は山なのだと思っています。上高地を人生の終点にされる方もおられます。きれいな景色を見ながら逝きたいと思うのでしょうが、別の行方不明者の捜索を行っていて、首吊りの遺体を発見するのはもう勘弁して欲しいです。
 リゾートというのが、色々な施設が整っていて、長期滞在できる街のようなところとすれば、上高地は違うと思います。しかし、語源の「何度も訪れる」ということなら、そうだと思いますし、そうありたいです。

山小舎を建てる
 25年ほど前、父が山小屋をやると言い出しました。もともと、山小屋をやりたくて、明神岳の5峰の平地に申請を出していましたが、許可は降りていませんでした。ところが、三俣山荘の伊藤さんが、黒部五郎小舎を手放したいとのことで、遠距離なのもかまわずお願いをしました。長野県の者が、富山県の小屋をやるわけですから、書類上のことも大変で、父は何度も富山まで足を運んでいました。30人しか泊まれない小舎で、儲かるはずなどないのに、何故、苦労してまでやるのだろうか? 小舎を始めた当時、山岳部の学生だった私は、一夏に使う量がわからず、足りなくなった醤油や油を、新穂高温泉から歩荷したり、ランプのホヤを磨きながら考えました。
 小舎は、小さな発電機を無線の電池の充電だけに使い、夜はランプを灯し、食事は近くの黒部川から岩魚釣りの達人の管理人さんが、岩魚を釣ってきたり、アザミやユキザサなどを取って、お客さんに供しているような小舎でした。小屋ではなく、あくまで小舎だったのです。

昔の上高地みてぃなところを見せてやりたいだ!
 理由が分かったのは、80才になろうとする、祖母(祖父は以前に死亡)を、小舎に連れて行った時のことでした。「昔の上高地みてぃなところを見せてやりたいだ」という言葉に、祖母が、上高地があまりにも俗化してしまったということを、言葉には出さないが、嘆いていたのだと知りました。もちろん、岩魚釣りの好きな父は、上高地の商売を引退した後、夏はここで暮らし、冬は上高地で暮らすつもりだったようですが・・・そんな小舎も、消防の検査で非常灯(ランプでやればかえって危ない)を付けろと言われたり、中高年登山者が増え、一日コースの中間に位置する小舎の宿泊人数が増え、管理するには遠いこともあり、15年程で、双六小屋の小池さんにお願いをすることになりました。

山荘を大きくしてきてしまったことに、自責の念
 父が、自費出版した「旅の空」という本の中で、こんなことも言っています。蝶の研究など、ナチョラリストの草分けとしても有名だった写真家、田淵行男先生とは、三代にわたり、お付き合いをさせていただいたのですが、先生の著書で、山荘前の蝶の食草が見られなくなったとの文章を知ってはいたが、後年、いつも先生の座っていたベンチに腰掛けていて、二度と食草が生えそうも無いことに気づき、愕然としたと・・・生活の為、お客さんの為、山荘を大きくしてきてしまったことに、自責の念を感じたのです。
 現在はどうかと考えると、確かに、環境省の規制で、これ以上山荘は大きくはなりませんし、収容人員も増やすことはできませんが、日帰りの観光客はどんどん増えてきました。道やトンネルが改良されたからですが、マイカー規制をし、そして今度は、観光バス規制を行うことになっても、おそらく夏の一日の入り込みは15,000人を下回ることはないでしょう。しかし、夕方、梓川の河原に出てみると、真夏でも人影は疎らなのです・・・

人がいる以上自然は少ずつ壊れていく
 ここで生計を立てながら、こんなことを言うのもなんですが、人間が入っている以上、どんなに気をつけても、自然は少しずつ壊れていってしまうものだと思うのです。ただ、それに気づいていて、その時できる最大限の防止策を実行すること、そして間違っていると気づいたら、すぐに修正することが必要だと思います。こんなことを言っていても冷夏だった今年は、営業者としては辛い年です。「もっと儲からないかなぁ」などとも思ってしまいます。こんなジレンマを抱えながら、上高地に居続けたいと思う私です。



■著者紹介

奥原 宰 (おくはら つかさ)
1956年生まれ 上高地西糸屋山荘 三代目
幼いときより長い時間を上高地で過ごす。上高地観光旅館組合副組合長。
上高地登山案内人組合・日本山岳会信濃支部・立教大学山岳部OB会所属