− 第747回 −  筆者 中村 達


『ある元山小屋主のこと』

 志賀高原にある山小屋の元小屋主が、この春に亡くなったと連絡が入った。以前から具合が良くないと聞いていたので、ここ数年はお会いする機会がなかった。
 20年ほど前だろうか、小屋を人手に譲って山を下りると連絡があった。夫妻とも60歳も半ばになり、雪かきや雪下ろしが体力的に厳しくなった、というのが理由だった。
 元小屋主が亡くなったとの連絡を受け、少し虚脱状態になった。いつかはと覚悟は決めていたが、現実になると大きなショックだった。その奥さんは10数年前にすでに亡くなっている。

 その山小屋に初めて訪れたのは、20歳の春だった。一度目のカラコルム登山を経験した翌年だ。意気揚々と3月の穂高に入ったが、豪雪が1週間も続いて雪洞に閉じ込められ、登頂を諦めて這々の体で逃げ帰った。松本に下山後、同行者に誘われて出かけたのが、この山小屋だった。

 長野駅から長野電鉄に乗車。途中の駅でバスに乗り換え、狭く曲がりくねった雪の道を、バスはうなり音をたてて、あえぐようにのぼった。硫黄のにおいがする箇所を何カ所か通過して、2時間近くをかけて、ようやく終着のバス停についた。そのバス停の前に目的の山小屋があった。
 山小屋の背後に広がるお椀状態の高原は、夏は牧場で冬はスキー場になっていた。スキー場といってもリフトが2基とロープ搭だけの小さなゲレンデだった。スキー場の入り口付近にこの山小屋のほか、10軒ほどのホテルやロッジが建っているだけで、スキーリゾートとか観光地という雰囲気は全くなかった。
 その山小屋は宿泊人数が、せいぜい20名程度の小さなもので、設えられたスキーヤーズベッドに、雑魚寝に近い状態で横になったと記憶している。小屋主夫婦ができる限り自然のままの山小屋を造りたかったと、後に聞いたことがある。

 標高1,500mの高原に建てられた山小屋の窓から、雪に覆われた白馬岳から穂高岳まででのアルプスが、眼下に流れる千曲川の向こうに見えた。
 この山小屋に40年以上も暇があれば通い、大変お世話になった。様々な経験と大きな学び、そして多くの人たちとの出会いがあった。(続く)


(次回へつづく)


■バックナンバー

■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
京都生まれ。アウトドアジャーナリスト・プロデューサー
安藤百福センター センター長、日本ロングトレイル協会代表理事、国際自然環境アウトドア専門学校顧問など。アウトドアジャーナリスト。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルム、ネパール、ニュージランド、ヨーロッパアルプスなど海外登山・ハイキング多数。日本山岳会会員