− 第614回 −  筆者 中村 達


『ある山岳カメラマンの追悼会』

 ある有名山岳カメラマンの追悼会が、長野県のとある山荘で行われた。そのカメラマンにはじめてお目にかかったのは、30年ほど前だったと思うが、しっかり挨拶を交わしたのは、かなりあとだった。

 私が高校生の頃から読み始めた山岳専門誌に、彼の名前は頻繁に登場していた。当時は山岳カメラマンというより、クライマーとして名を馳せていたように記憶している。半世紀以上もむかしのお話である。
 彼は東京の有名山岳会の設立メンバーでもあり、フランス語でつけられた会の名前は、私のような京都人には眩しかった。当時、東京の先鋭的な山岳会は、国内はもちろんヒマラヤやヨーロッパアルプスで、華々しい成果をあげていて、私にとっては憧れでもあった。
 もちろん、京都をはじめ関西などでも海外、なかでもヒマラヤでは多くの記録を打ち立てていた。が、ヨーロッパアルプスの登攀については、関東勢のアルピニストが専門誌によく取り上げられていたように思う。

 そんな時代に彼は、次第に山岳カメラマンとして脚光を浴びはじめた。山岳カメラマンはほとんどの場合、実際にその山に登って撮影する必要がある。特に、岩壁や氷壁を攀じるクライマーの姿を撮ろうとすると、実際に同じルートを登るか、あるいはその横を登る必要がある。したがって、カメラマンにも撮影技術はもちろんのこと、卓越したクライミングテクニックが要求されることになる。

 そんな彼を専門誌で見るたびに、憧れと尊敬を抱いていた。後年、その彼とアウトドアズを広めるような仕事を、一緒に手掛ける機会があった。なんだか楽しくて、うきうきしたものだ。不思議なご縁だった。

 卓越したクライマーでもあった彼が、晩年になって、子どもたちには自然体験が大切だと、当地にできた自然学校をボランティアで手伝っていた。その自然学校もようやく軌道に乗り始めたと追悼会で聞いた。きっと彼も喜んでいるに違いない。
 お茶目で、少しハチャメチャだけれど、優しくて、頼まれたことは断らない。人の悪口は言わず、誰からも好かれ、数多くの友人や飲み仲間、そして山仲間がいた。
 針葉樹の森の山荘で、ウィスキーを片手にジャズやクラシックを、真空管アンプと大きなスピーカーで聴いていた、そんな彼の姿を思い浮かべた。


(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
京都生まれ。アウトドアジャーナリスト・プロデューサー
安藤百福センター センター長、日本ロングトレイル協会代表理事、全国山の日協議会常務理事、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、全日本スキー連盟教育本部アドバイザーなど。アウトドアジャーナリスト。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルム、ネパール、ニュージランド、ヨーロッパアルプスなど海外登山・ハイキング多数。日本山岳会会員