− 第601回 −  筆者 中村 達


『半世紀近くの登攀記録』

 先日、かつて所属していた京都の山岳会の事務局から、会報が送られてきた。封筒から会報を取り出してページをめくるまでは、なぜ送られてきたのかわからなかった。そこには、この自然体験.comのコラムの紹介記事があった。これはうれしい。
 その次のページは「北アルプス・赤沢山の登攀記録」だった。「へぇー」と見入ってしまった。私が登った記録が再登場していた。記録では昭和46年6月と書かれていたので47年前のことになる。半世紀近い昔のお話だ。

 当時、国内の主な岩壁は登りつくされていたので、登山界では少なくなった未踏の壁を、集中的にルート開拓するのが流行っていた。特に先鋭的な社会人山岳会が、会のパワーを結集してルートの開拓を行うのがブームだったと思う。  槍沢左岸の赤沢山もそのひとつだった。槍ヶ岳への登山路から天空に聳える岩塔が見える。それが赤沢山だ。当時、私の所属していた山岳会がネパールのマナスル登山を計画していて、その登山隊に参加するには、その山岳会に入る必要があった。そこで私も入会した。
 おそらくマナスル登山のトレーニングも兼ねて、赤沢山に出かけたのだろう。余談だが、登山許可は下りなかったので、その山岳会からは3年で退会した。それも会報に記されていた。

 パーティーメンバーの一人が書いた会報の記録は、詳細に書かれていた。読みながら「そんなこともあったのか」と、少しずつだが当時の光景が思い出されてきた。岩壁の取り付き点で落石に当たったこと。ザイルをフィックスしに登ったが、途中で自分が打ち込んだハーケンが抜けて滑落したこと、などが記されていた。落石にあたったことは覚えているが、落ちたことは全く覚えていない。
 また、ルートファインディングが難しく、何度も登下降を繰り返したこと。16ピッチもあったなど、ほとんど忘れていた登攀の状況がリアルに記されていた。やはり、記録は大切だなどと、いまさらながら感心した。とくに私の記憶は、ええかげんあてにならないものだとつくづく思った。

 ところで、当時の装備はどんなものだったのか、何を食べていたのか、そして休暇はどうしたのか、仕事はなどと疑問がフツフツと湧いてきたが、この記憶もほとんどない。困ったものである。

(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
京都生まれ。アウトドアジャーナリスト・プロデューサー
安藤百福センター センター長、日本ロングトレイル協会代表理事、全国山の日協議会常務理事、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、全日本スキー連盟教育本部アドバイザーなど。アウトドアジャーナリスト。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルム、ネパール、ニュージランド、ヨーロッパアルプスなど海外登山・ハイキング多数。日本山岳会会員