- 第482回 -  筆者 中村 達


『スキーバブル時代のこと』

 かつて、スキーが盛んだったのは1980~90年代だったと思う。スキーバブル時代ともいえる雰囲気だった。
 連休や休日前夜ともなると、京阪神の主要ターミナルからスキーバスが、各地のスキー場に向かって怒涛のように出発していた。ターミナルでは自分が乗車するバスを探すのがひと苦労だった。
 その頃、関西から信州方面へ向かうには、名神から中央道を通り中津川ICから国道19号線を走った。中津川ICを下りてしばらく走ると、元越というドライブインでトイレ休憩をとった。何十台ものスキーバスがほぼ同じ時間帯にやってくるので、駐車場は大混雑だった。
 女子トイレは売店付近まで長蛇の列ができていた。寒い中、長時間待たされて気の毒だった。そして、トイレを終えて自分が乗ってきたバスを見つけるのも大変だった。間違えて、危うく違うバスに乗ろうとしたこともあった。
 また、降雪時や路面が凍っているときは大渋滞が発生して、スキー場に到着したのは、昼、なんていうことも経験した。
 帰路は帰路で、夜にスキー場を出発したもののバスの燃料が凍結して、修理工場で軽油を融かすのに一晩費やし、帰着したのは翌日の夕刻ということもあった。職場への言い訳に苦心した。
 スキーバスでは、往路はさほど眠れなかった。寝不足のまま、目いっぱい滑り、夜は宴会のようなことをやって、翌日早朝からゲレンデに飛び出していた。夜には再びバスに乗って帰り、そのまま出勤して仕事をしていた。

 鉄道も休日前の夜行列車は大混雑だった。2月の連休の前夜、京都駅からは座れないと考えて、名古屋発の列車の乗ろうとしたが、コンコースはスキー客で大混雑。改札がはじまると、一斉にスキー客が殺到して、駅員も整理できないような騒乱状態になった。ビールやジュースの空き缶が飛び交い、悲鳴があがるひどい事態に遭遇した。乗車予定より一つ後の列車に、何とか座ることができた。この夜行列車は、もちろん、いまはない。

 国民がこぞってスキーに出かけた時代で、バブル経済のレジャースタイルの典型例だった。スキー人口が1500万とも1800万人ともいわれた頃だ。スキー用具・ファッションの市場規模は、推計で3000億円を超えていた。
 ただ、主流だった車中2泊、現地一泊というハードスケジュールには、知人の米国人が目を丸くして、クレイジーと笑った。
 が、20年以上経過して、スキーブームは去ってしまった感があるが、私たちの休暇事情はさほど変わらないように思う。

 さて、軽井沢付近のスキーバス事故で、将来のある有為な15名もの若者たちが亡くなった。また、怪我をされた乗客も多いようだ。大変残念でならない。二度とこのような事故を起こしてはいけないと思う。心よりご冥福をお祈りします。

※画像は本文とは無関係です。

(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
京都生まれ。アウトドアジャーナリスト・プロデューサー
安藤百福センター副センター長、特定非営利活動法人日本ロングトレイル協会代表理事、全国「山の日」運営委員、公益財団法人日本山岳ガイド協会特別委員、国際自然環境アウトドア専門学校顧問など。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルム、ネパール、ニュージランド、ヨーロッパアルプスなど海外登山・ハイキング多数。日本山岳会会員