![]() ![]() ![]() - 第469回 - 筆者 中村 達
『思い出の山小屋』 8月の末、志賀高原のはずれにある山小屋で、元オーナーの傘寿のお祝いの会があった。この山小屋にゆかりのある人たちが、お祝いに各地から駆けつけた。 私がこの小屋に初めて訪れたのは20歳だった。穂高岳からの帰途だった。40年以上も前のお話である。 3月の中頃だったと思う。友人と2人で穂高岳へ出かけた。この年は豪雪で、沢渡から梓川に沿って雪の中を歩いた。中の湯、坂巻温泉あたりでは膝までのラッセルだった。釜トンネルの入り口は、上弦の三日月型でリュックサックを放り込んでから、トンネルの中に滑り込んだ。真っ黒なトンネルの凍てついた急坂を、ヘッドランプをつけて、転ばないよう注意して歩いた。足元に気をとられて歩いていたら、白いモノに激突した。びっくりしてランプで照らすと、それは大きな氷柱だった。 30分ほどで釜トンを抜けると、雪はさらに深くなって、吹き溜まりでは腰まで潜った。夕刻になって、ようやく上高地に辿り着き、冬季小屋に潜り込んだ。 その後、毎日のように雪が降り続き、徳沢園の冬季小屋で天候が回復するのを待った。いっこうに収まる気配はなかったが、吹雪の切れ間に出発した。前穂高岳へ北尾根から登るつもりで慶応尾根に取り付いたが、胸までのラッセルを強いられた。雪洞を掘って一晩様子を見ていたが、雪は降り続き、諦めて下山することにした。しかし、その後も雪は一向に収まらず、上高地の冬季小屋で雪が止むのを待った。当時、そこは冬季限定のただ1軒の営業小屋で、宿泊費の支払いで有り金が底をつき始めた。 入山以来10日ほどたって、ようやく青空が見え下山することができた。ところが、思わぬ出費で、帰宅するには2人の持ち金を合わせても、とても京都まで帰れないことが分かった。何とも間抜けなことだ。 ただ、友人の母親が志賀高原の山小屋にスキーに来るので、そこへ行けば何とかなりそうだった。そうして、有り金を全てはたいて辿り着いたのが、冒頭の山小屋だった。 ![]() その後、一念発起して、スキーにのめり込んだ。アルバイトで稼いだお金は、山とスキーにすべてつぎ込んだ。 そんな思い出のある山小屋に20年ぶりにあがった。山の風景は、何も変わらなかった。 (次回へつづく)
■バックナンバー ■筆者紹介 中村 達(なかむら とおる) 1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト/プロデューサー 安藤百福センター副センター長、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、NPO法人アウトドアライフデザイン開発機構代表理事、NPO法人自然体験活動推進協議会理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。 生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。 |