- 第426回 -  筆者 中村 達


『パキスタン探検の旅のこと 2』

 日本を発ったのは大阪の伊丹空港からだった。家族や友人たちが見送りに来てくれた。なぜか、私たちは着慣れないスーツだった。その当時、飛行機に乗るには、スーツを着なければと思ったのだろうか。搭乗する飛行機へは駐機場まで誘導路を歩いた。見送りの人たちがターミナルビルの屋上から手を振ってくれた。いま思い起こせば、大時代的な雰囲気だった。
 1969年は大阪で開催された万国博覧会の前年で、ようやく海外渡航が自由化されたばかりだった。海外に出かける日本人旅行者は、まだまだ少なかった。なにしろ1ドル360円の時代だった。

 参加費つまり隊員の負担金は一人100万円。その当時大卒の初任給が2万円そこそこで、現在のレートで10倍とはいわないが、結構高かったと想像する。大金だったので親に頭を下げて頼み込み、無理やり出してもらった。以降、援助は一切いらないという約束で・・・。

 パキスタンのカラチに向かう途中、香港に立ち寄った。香港に立ち寄った理由の一つは、まずは、外国に慣れるためだったような気がする。
九竜の土産物店で「How much?」と、生まれて初めて外国人相手に英語を話した。これが第一声だった。ドキドキしながらの会話で、冷や汗ものだったがなんとか通じた。香港には3日間ほど滞在した。再び飛行機に搭乗して、いよいよパキスタンのカラチに向かった。

 すでに日は落ちていたが、カラチに近づくにつれ窓から見える地上は、褐色の台地だった。搭乗機の高度が下がり、家々の灯りがポツリポツリと点在しているのが見えた。
 カラチ空港に着いてドアが開くと同時に、熱風が身体を包み汗が噴き出した。スチュワーデスのお姉さんが、「気をつけてね!」と声をかけてくれた。なんだかわからないが涙がでてきた。
 タラップを下りて、裸電球の誘導灯に導かれるまま、入国審査場に向かった。審査場の天井には大きな扇風機がゆっくり回っていた。入国審査官が英語で何やら質問したが全く答えられず、そのうえ登山や探検用の装備品もあったので、通関に30分以上かかってしまった。特にカメラや大量の18mmフィルムについて、質問されたようだ。言葉がわからず困っていると、隊長が助け舟を出してくれ、何とか入国審査と通関を終えて入国することが出来た。長旅と熱さで、疲労は極限に達していたように感じた。

 市内のイギリス統治時代に建てられたホテルに着いた。ロビーの天井には大きな扇風機がゆっくり回っていた。部屋に案内されベッドに横たわると、旅の疲れと緊張から解放されて、そのまま寝入ってしまった。

 翌朝、拡声器から流れるコーランで目が覚めた。広い部屋の窓を開けた。遠くに地平線と褐色の台地が見えた。ふと下に目をやると、駱駝が3頭、大きな荷物を乗せて歩いていた。「本当に来てしまった!」と思った。(つづく)

(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト/プロデューサー
安藤百福センター副センター長、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、NPO法人アウトドアライフデザイン開発機構代表理事、NPO法人自然体験活動推進協議会理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。