- 第419回 -  筆者 中村 達


『冬季オリンピックとスキー』

 ソチ冬季オリンピックは日本人選手の活躍もあって、深夜までTVに見入ってしまう毎日が続いた。スノボ、ジャンプや複合競技それにフィギアスケートなど、感動するシーンが多かった。これらの競技を見ながら、1972年の札幌オリンピックの頃を思い出した。
 その時代、日本は高度経済成長下で、冬といえば人気のレジャーはスキーだった。大勢の人たちがスキーをして、スキー用具が飛ぶように売れた。私もYAMAHAのPARAMOUNTという板を履いていた。冬は暇さえあれば雪山かスキーに出かけていた。当時、スノボは少なくとも私は見かけなかったように思う。

 京都から信州方面へのスキーは、車より夜行列車が便利だった。その当時、まだ中央道が全線開通していなかった。国鉄の長野行き夜行列車は「急行ちくま」だった。「ちくま」は1号とか2号が運行されていて、連休の前夜には臨時の号もあった。それでも超満員で、乗りきれないスキー客もあった。
 スキーバスも大人気で、大阪、新大阪のターミナルは何台ものバスが連なって、自分が乗車するバスを探すのもひと苦労だった。ターミナルに向かう板を担いだスキーヤーの姿が、そこら中で見られた。スキーは担いでいくのが普通だったようだ。

 スキー場の宿は、正月や連休は1年前から常連客の予約で満室だった。はじめての人たちは、コネを頼ったり、割高になっても代理店に斡旋してもらったようだ。
 人気のゲレンデは芋の子を洗うような混雑で、リフトに長い列ができた。下手をすると、1時間待ちなんていうのもあった。そこに割り込みがあって、スキーヤー同士のトラブルもよく見かけた。また、ゲレンデで友人と待ち合わせ時間を決めても、約束時間を守れるか定かではなかった。レストハウスも大混雑で、テーブルとイスを確保するのが大変だった。
 そんな時代もいまは昔である。リフトやゴンドラは高速化して、待ち時間もほとんどなくなった。もっともスキー客の極端な減少が大きいが・・・。

 冬季オリンピックでは、個人的にはアルペンにもっとも興味があるのだが、日本人選手の出場が減ったのか、TVの中継が少なくなった気がする。オリンピックで放送の機会を増やすには、強くなるしかないようだ。それには、一般スキーヤー、とりわけ子どもたちの参加人口を増やし、底上げすることが重要だと思う。わかってはいるのだが、課題が多いということか。

※画像はいずれもイメージで、本文とは無関係です。

(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト/プロデューサー
安藤百福センター副センター長、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、NPO法人アウトドアライフデザイン開発機構代表理事、NPO法人自然体験活動推進協議会理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。