- 第399回 - 筆者 中村 達
『夏山合宿』 高校山岳部の最大の行事は夏山合宿だった。夏山合宿までは3年生も参加した。が、ホームルームで担任が、名指しこそしなかったが「受験勉強が大変なときに、山へ登るなんてとんでもない」と、皮肉交じり言った。山岳部の顧問は「ほっとけや!」なんて涼しい顔だった。 その夏は、薬師岳から剣岳までの縦走で、10日間の合宿だった。登山が盛んな時代で、参加者は17名もいた。京都駅からは座れそうもないので、大阪駅まで逆行して発駅着席券なんていうのを入手した。座席は指定されていないが、席は確保されているという、約束席のようなものだ。夜の11時ごろに発車する急行に、昼過ぎから並んだ。その時すでに大学、高校の山岳部やワンゲル部が、大きなキスリングを並べて、順番どりをしていた。 その夜行列車は、冷房はついていなかった。洗面場でタオルを濡らして、ジュースをくるみ、窓の外に括り付けた。放射冷却で少しは冷たくなったような気がした。 北アルプスの縦走路は気持ちが良かった。後立山が雄大な姿を見せていた。お花畑が点在し、高山植物が咲き乱れ、まるで別世界だった。所々にある残雪で水を確保した。夜はテントで浦松佐美太郎の『たった一人山』を、部員がかわるがわる朗読した。 当時、学校の山岳部やワンゲル部は盛んだったので、多くの学校とすれ違った。関東の有名大学山岳部のシゴキも目撃して、こんなところに入るのは御免だと思った。 薬師岳を超えて、越中沢岳、五色が原を通って立山に入ると、登山客でごったがえしていた。立山は登山者に人気のある山だった。ただ、当時はまだアルペンルートは開通していなかった。室堂にはプレハブの売店と、バスの切符売場、それにリュックの重さを計る計量器があるだけだった。バス道は舗装されておらず、車両が通ると茶色い土煙が舞いあがった。 立山を縦走して最後のキャンプ地の剣沢に到着した。 内蔵助カールの雪渓で、雪上訓練をした。丸一日雪渓の上で、ピッケルを使って「ストップ」や「ステップ」のトレーニングを繰り返し行った。びしょ濡れになった。昼食は特別に焼いてもらった、フランスパンを粉末ジュースで流し込んだ。粉末ジュースは多くの種類があったが、オレンジとサイダー味が好きだった。 夏山合宿のハイライトは剣岳登頂だった。岩稜を興奮して登ったのを覚えている。山頂からは歩いてきた山々がくっきりと見え、自分の踏み跡を振り返って、少し感傷的になった。 その後、これらの山々は数えきれないほど登っているが、高校時代の山行ほどはっきりした記憶がない。自然の記憶は、若いほど映像のように鮮明に残るのだろう。 ※アルペンルートは1971年に全線開通 (次回へつづく)
■バックナンバー ■筆者紹介 中村 達(なかむら とおる) 1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト/プロデューサー 安藤百福センター副センター長、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、NPO法人アウトドアライフデザイン開発機構代表理事、NPO法人自然体験活動推進協議会理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。 生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。 |