- 第393回 -  筆者 中村 達


『春の白馬岳』

 今年はGWの山岳遭難が例年になく多かった。白馬岳でも遭難があった。白馬岳は大雪渓の落石や雪崩による事故が多発している。左の白馬岳主稜や三合雪渓、右の杓子岳東稜あたりから、ひっきりなしに雪崩や落石がある。大雪渓の遭難事故は、これらによるものが多い。落石や雪崩の発生予測は難しく、予測の難しさが原因の大半を占めるように思う。
 落石や雪崩の危険がないルートを登るのがベストだが、そこを通るしかないこともままある。そんなときは、できるだけ早く抜けたり、岩や雪、氷が緩む時間帯を避けるしかない。
 夏山では、わざわざ落石のポイントで休んでいる登山者をよく見かける。事前にコースの危険個所をチェックしておくことが重要だ。

 白馬岳大雪渓は、私にとって大変思い出深いところでもある。春山合宿に大雪渓の基部にB.Cを設営して白馬岳を登った。猿倉までタクシーに分乗して入り、そこから大きなキスリングを担いで白馬尻まであがり、テントを張った。残雪は4、5メートルはあった。テントサイトは、大雪渓を落ちてくる雪崩を避けるため、白馬尻の高台に設けた。食料は雪洞を掘って保冷庫をつくり保管した。新人の仕事だった。
 大学1年生のときは、重い荷物にバテテしまい、白馬尻まであがるのが精いっぱいだった。疲れて早く寝てしまったが、真夜中に轟音が響き、目が覚めた。テントが震えた。翌朝テントから出てみると、足元の大雪渓にはデブリが一面に広がり、谷の様相は一変していた。大規模な雪崩が滑り落ちた跡だった。恐ろしさに震えた。

 その後、何度か同じ時期に、白馬岳を登りに出かけた。多くのルートを登った。白馬岳主稜、二子尾根、杓子尾根、杓子岳東稜などを毎日のように登り、そのたびに白馬岳の山頂を踏んだ。若かったから疲れを知らなかったのだろう。そして、どのルートも雪崩の発生に注意しながら登ったことを、鮮明に覚えている。
 白馬岳の主稜とは、山頂から大雪渓までを、ほぼまっすぐに落ちる稜線のことだ。この稜線の下部に取り付くには、雪崩を避けるために、気温の最も低い夜明け前に、大雪渓を横断しなければならない。まだ目が覚めやらぬ時刻に、急いで横断するのはきつかった。稜線まで上がると、急峻な主稜が山頂まで、ほぼまっすぐに伸びていた。山頂直下50mは雪壁だった。足元は白馬沢に1000mほど切れ落ちていた。日本の山とは思えない様相で、幾筋ものヒマラヤひだが、頂稜から大雪渓へとのびていた。

 この時代、山は若者たちが主役だった。学校の山岳部や社会人山岳会に所属している者が多かった。登山者の組織率は高かった。質の差はあってもそれなりに、登山と安全についての教育やトレーニングがなされていたように思う。
 いま、この国は登山が大ブームで、多くの人たちが山に登っている。それはそれで結構なことだが、社会として登山の安全教育と、指導システムが必要になってきていると思う。いかがだろう。

(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト/プロデューサー
安藤百福センター副センター長、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、NPO法人アウトドアライフデザイン開発機構代表理事、NPO法人自然体験活動推進協議会理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。