- 第354回 -  筆者 中村 達


『友人のお別れの会』

 古い友人のお別れの会があった。まだ65歳だった。彼女は信州の高原でヒュッテを経営していた。オーナであった彼女の夫は、10数年前に51歳の若さで他界した。彼は私より3つ年上だった。彼と2人で3月の穂高岳に行き、豪雪に遭い10日ほど閉じ込められた。雪のやむのを待って、逃げ帰った記憶がある。40年以上も前のお話である。

 京都木屋町のバーとクラブの間に、小さな山とスキーの専門店があった。私の大学時代、冬はきまってその店でアルバイトをしていた。店にはクライマーたちが設立したスキークラブの事務所があった。当時、彼はまだ大学生だったが、スキークラブのリーダー格でしょっちゅう訪ねてきた。私も誘われて、そのクラブに入会した。時代はまさに高度経済成長期だった。

 その後、彼らはスキークラブで知り合った縁で結婚した。そして、穂高岳が目の前に広がる高原に、ヒュッテを建てた。2人の夢がかなった。30数年前のことだ。
 はじめてヒュッテを訪ねたとき、窓から見えた穂高連峰の迫力に圧倒された。よくぞ、こんなすごいに場所に建てたものだと、感動したものだった。2人の人柄で、山好きやスキーヤーなどが大勢訪れ、ヒュッテは大いに賑わった。

 が、バブル経済が崩壊し、不況と若者たちのスキー離れで、スキー場に隣接したこのヒュッテも、ご他聞にもれず厳しい環境に徐々にさらされていった。追い討ちをかけるように夫は他界して、経営は彼女ひとりの肩にかかってしまった。しかし、明るく粘り強い彼女は、過疎の地域社会に溶け込み、多くの人たちを巻き込みながら、自然学校を立ち上げ、スキーだけに頼らない地域観光のありかたを模索し始めた。彼女の人柄とバイタリティーが人々の感を呼び、運営は軌道に乗ったようだ。
 一方で、ヒュッテ経営の傍ら、観光協会会長という重責などもこなしながら、地域のために、さまざまなボランティア活動にも打ち込んだ。

 時々電話があった。「子どものカヌー教室やるんやけど、カヌーがあらへん。どうしたらええ!」「自然学校の名前やけど何がええ!」「トレイル、作ってみるわ!」・・・いつもそんな風で。受話器の向こうで大きな声で京都弁が響いていた。
 彼女の頭の中には、常にヒュッテのこと、地域の人々のこと、自然のこと、そして子どもたちの顔があったように思う。お別れの会では、大勢の人たちが涙を流した。

 昨年、秋が終わる頃電話があった。「いま、達っちゃんの近くの病院に入ってるねん。治療中やねん。」。かなり病状がすすんでいるような空気だった。「ロングトレイル作るまで、まだ、くたばったらあかんで!まだまだ、これからや!」「わかった、がんばる!元気でたわ!」これが最後に聞いた彼女の言葉だった。
 自然の中で逞しく生きる、というのはまさに彼女のようなライフスタイルをいうのだろう。彼女のそんな人生を誇らしく思う。

(次回へつづく)


■バックナンバー

■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト/プロデューサー
安藤百福センター副センター長、国際自然環境アウトドア専門学校顧問、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、NPO法人アウトドアライフデザイン開発機構代表理事、NPO法人自然体験活動推進協議会理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。