- 第247回 -  筆者 中村 達


『なぜ、山では挨拶?』

 予定が何もない休日は近くの山を歩くことにしている。4月のある日曜日、天気がいいので三上山(標高432m。通称近江富士)に登ってきた。登りは40分程度、下りは30分ほどの低山だが、眺望はとびっきりいい。琵琶湖とその向こうに比叡山が見える。手ごろな山なので近隣の街からも家族連れで登りにきている。三上山は登山愛好家にもそこそこ有名で、京阪神からも大勢の中高年登山者が訪れる。

 不況だからだろうか、この日、小さな子どもたちを連れた数多くのファミリーハイカーに出会った。お弁当さえ持参すれば、他にはお金はかからないし、他の遊びにはない貴重な自然体験と達成感、そしてなによりも感動がまっている。ファミリーハイカーに出会うたびに、いまどきその親たちは偉いと思ってしまう。
 この三上山でも登山道で子どもたちに出会うと、彼らは必ず「こんにちは」と挨拶をしてくれる。だれかに教わったわけではないと思うのだが、気持ちのいいものだ。
 一昔前は、近所の子どもたちには大人たちが声をかけた。「おはよう」とか、「おかえり」とか、「どうした」「がんばっているか」などなど、自然に話しかけたものだ。声をかけてその反応で子どもたちの様子を観察した。それが子どもたちを保護することにも、少なからず役立ったはずだ。昨今、下界では子どもたちに声をかけると「あやしいオヤジ」として、警戒されるのがおちだろう。しかし、山ではなんの抵抗もなく自然に挨拶ができる。もっとも、いまは子どもたちそのものの姿を見かけることが極端に少なくなった。

 なぜ、山では挨拶するのだろうか?街ではしないし、キャンプ場のようなところでも、さほどしているようには思えない。不思議といえば不思議である。
 以前、比叡山延暦寺の千日回峰行者のお話しをうかがったことがある。40km以上の行者道を未明から明け方にかけて歩かれるのだが、怖いのは人とすれ違うことだそうだ。サルやイノシシなどの動物ではなく、人間が一番怖いと話されたのが印象に残っている。
 山道で人と出会うときは、山岳観光地でもない限り、一人または少人数だ。だから声をかけて、お互いを確認して安心する、という意味も含まれているのかもしれない。挨拶をして、怪しいものではないと見定める。挨拶の反応ですれ違う人物を判定して、それで安心する。考えてみれば、誰もいない狭い山道で挨拶もせず、黙ってすれ違うのはなんとなく不自然で、気持ちのいいものではない。もちろん、挨拶の中に、その自然空間を共有して、同じ行為をしているといった連帯感も少しは含まれる。「挨拶は心と心の握手です」という標語をどこかで見かけた。

 いずれにせよ、普段の生活ではすれ違う他人には、よっぽどのことがない限り挨拶はしない。新宿や梅田で行き交う人に挨拶でもしたものなら、変人扱いにされるどころか「あやしい」と思われるだろう。しかし、自然のなか、こと山登りでは必ずといっていほど挨拶や会釈を交わす。子どもたちはその傾向が特に強い。やはり自然は偉大な教師だ、とやや大げさながら近所の里山で、いまさらながらそう思った。連休にはそんな挨拶のシーンが数多く見られることだろう。

(次回へつづく)


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■筆者紹介

中村 達(なかむら とおる)
1949年京都生まれ。アウトドアジャーナリスト。
NPO法人自然体験活動推進協議会理事、国際アウトドア専門学校顧問、NPO法人比良比叡自然学校常務理事、日本アウトドアジャーナリスト協会代表理事、東京アウトドアズフェスティバル総合プロデューサーなど。
生活に密着したネーチャーライフを提案している。著書に「アウトドアズマーケティングの歩き方」「アウトドアビジネスへの提言」「アウトドアズがライフスタイルになる日」など。『歩く』3部作(東映ビデオ)総監修。カラコルムラットクI、II峰登山隊に参加。日本山岳会会員。