今井通子氏 講演会要旨    

「自然体験で育むこころとからだ」  今井 通子

 皆様こんにちは。ただいまご紹介をいただきました、今井でございます。

 依頼をいただきました演題が「自然で育むこころとからだ」で、子どもたち向けだったものですから、今子育て真っ盛りの方々はいいと思いますが、子育てを終わってしまった方々は、娘さんか息子さん、もしくはお孫さんに役に立つ話になるといいと思います。その辺をご容赦いただいて、間違いなく聴いて伝えていただけると有り難いです。

 写真で後ろに写っている山は、スイスのグリンデルワルトにあるアイガーという山ですが、いちばん前を歩いている男の人が抱えているのは何か?というと、赤ちゃんです。
 ヨーロッパでは、ここ100年ぐらい、親子もしくは孫の皆さんが、こういった形でアルプスの中に踏み込む事が多いです。赤ちゃん用のキャリーなんかも発達していますし、キャリーに傘がついている物まであります。老若男女を問わず、子どもから高齢者までアルプスの中へ入っていきますが、この人たちは決して、後ろにそびえるような山に登ろうとしているのではありません。アルプスの山の裾野の、草原地帯や森林地帯を「アルム」もしくは「アルプ」と言いますが、そういうところをゆったりとハイキングするような事を楽しんでいるんですね。

 先程、各方々のご挨拶の中にも出てきましたが、都市化や文明の発達が人体もしくはこころとからだに影響を与えた事はたくさんあります。
 現状を把握しますと、実は人間は、人間社会の『人間』であると同時に『ヒト』という動物なのです。ですから「動物である」という部分は一生持ち続けています。なかでも、生まれてから15歳ぐらいまで、要するに動物として大人になるまでの発達する時期というのは、本能的な部分が五感などを通じて、各年齢によって発達具合が違っていて、動物として強く生き延びる機能を確固たるものにしていく時期なんです。 動物が育つ時期なんですけれども、人間も同じなんです。
 例えば生まれたての子どもは何もできませんが、生まれた以上は生き延びるための能力を与えられています。生まれたての子どもは耳が聞こえます。ちょっと異常な音がしたときには「オギャー」と泣きます。これは泣いて自分の身の危険を知らせて、周りの守ってくれる人に助けを求めているわけです。そして、もうちょっとたつと、生き延びるためにしなければならない事というのがあって、ひとつは、危険を察知したときに、その危険から逃げる、もしくは危険のあるような所には行かない。もうひとつは、何か相手を殺して食べなければ生き延びられないから、戦って獲物の命を奪って食べる、という原則的な事をしなければならないし、するように発達していきます。
 ところが、『人間』になってしまい、都会に住んでしまい、いろいろな意味での『危険』がなくなってしまいました。それから文明の発達で、相手を殺して食べなければならないということも、する必要が無くなってしまいました。「都市化しました」「文明化しました」と言ったときに、よく「運動をしなくなった」とか「便利すぎて自分の頭の中で知恵を使わなくなった」という話はありますが、『動物』というところまで話を戻してみると、実はやるべき事をほとんどしない故に、自分の位置すらもわからなくなっている、という事です。

 赤ちゃんは目が見えない、耳しか聞こえない。でも生き延びるために必死になって「オギャー」と泣く。自然界というのは非常に合理的にできていて無駄なエネルギーは使わせないから、100日ぐらいたって這いだす頃になって、目が見える必要が出てくるから見えるようになります。そして、何でも自分の口に入れて試して、エサになるかどうかを探します。だから畳の目のゴミがフラフラと動いていても食べてしまう。昔は子どもの数が多かったから、親はそれを放っておきました。けれども最近は子どもの数が少ないから、親がずっと見ている暇がある。それで頭の良い親だと、赤ちゃんが這っていくと目線の先にゴミがあるから「あ、あのゴミを食べるな」と思えば取ってしまう。そこまで見ていないお母さんでも、つかんだときには「ばっちい」と言って取ってしまう。よほど呑気なお母さんでも、口に入れたときには「あんた今何食べたの?」と言って放り出してしまう。
 要は、全部『体験』なんです。自分がしなければならない体験を取り上げられてしまうんですね。畳の目のゴミが風に揺れていれば生き物のように見えて、あれは自分の栄養物になるんだろうと思って取って食べてみたら、何ら歯ごたえもない。なれば「これは違うんだ」と自分で吐き出すんです。本来ならばそういう体験を経て、自分が何を必要として、何が要らないのかを知る。小さいうちは逃げ延びて命をながらえ、大きくなったら戦って獲物の命を奪って食べ、また家族も守る。そういう流れみたいなものがあるわけです。

 体験には2つありまして、動物としての体験というのは、自らが動いて体験する事です。「自らの考え・発想で動いた」という事が動物の体験なんです。自然体験のなかでも「どこかに行きました」「・・・をしました」という体験は、人間社会の中で学校が教える「勉強」と同じ「カルチャー」という体験なんです。でも『ヒト』として必要なのは、学校で学ぶ『知識』の体験ではなく、自分の発想の中で知恵を使ってする体験です。人間はこの両方をやらないと、社会にも出て行かれないし、動物として発達していなければ社会性も身につかない、という事です。
 まず3歳から5,6歳になると、「オギャー」と泣いて守ってもらうところから一歩進んで、自分で逃げ延びて生き延びる、というふうに身体ができてきます。だから5,6歳の子どもってすばしっこいですね。やたら走りたがりますね。交通ルールの中に、親御さんに「子どもの手を引いて横断歩道を渡って下さい」みたいな話がよくありますが、それは何故かというと、子どもが急に走ったり、何を思ったか急に後ろを向いてまた走って帰ってきたり、いろんな事をするから非常に危ないんですね。人間社会の中では通じないんです。でも子どもとしては、そういう走り方をしたり飛んだり跳ねたりする事が、ひとつずつ自分が持っている機能の確認になるし、更にそれが成功すれば、その上ということで発達に結びついていくわけです。

 千葉大の坂本先生たちのグループが、子どもたちの能力を測っていってわかった事は、いろいろな体験、つまり自分から発した体験をした、土台の広い子どもの場合は、成功体験もありますが失敗体験も多い。その成功失敗を繰り返していくうちに、最終的には全て、動物としては成功するんです。例えば皆さんでも、3歳の時は家の畳の上で転んでいたけれども、何回でも失敗しながら歩けるようになって、3,4歳の時はつまずきやすかったのが、今はそんな事はない。あとはかなり高齢になるまでは、畳に引っかかってつまずくような事はない。要は「立って歩く」という事では成功しているわけです。そういう『成功』です。それを積み重ねていく。だから失敗は何回も繰り返すんです。繰り返すたびにちょっとずつ身体のバランスとかを変えて、成功していって、そして走れるようになって、スピードも出るようになって、相手を捕まえて食べる事もできるようになるんです。
 そういういろいろな体験をしている子どもたちは「物事は成功裏に終わる」という自身をまず、頭の中にインプットするんです。ところが現代社会の場合には、そういう場が無い。すごくイレギュラーで成功か失敗かわからないような場が無い。例えば、大体の所は階段がついていますね。そうすると足首なんかはあまり曲げる必要がない。でも自然の山坂の場合には、体重を前に移動したり、後ろに移動したり、その微妙なバランスで転んだりする事がある。都会の川には橋が架かっています。でも自然の川には橋が架かっていないので飛び越えようとする。その飛び越えるときに、自分でこれは飛び越えられるのか飛び越えられないのかを考えてから飛びますね。で、考えて飛んだなら、これはほとんど成功するんです。大体自分が読んだ幅は自分の命を守るぐらいの幅で、自分の能力を読んでいます。ところが、そういうときに教えてしまうと、例えば「○○ちゃんなら飛べるわよ」と言われて飛ぶと、他人の考えだから失敗する事があるんですね。また「○○ちゃん△△ちゃんも飛んでるじゃない、あなたが飛べないわけないわよ」と周りの人と比較されると、なお飛べなくなります。自分で考えて飛べないと思ったら、他の方法を考えますよ。川の中に入ってから飛ぶとか、もっと細い所はないか上流の方へ探しに行くとか。そういうのも全て、自分から出た事で物事を成功させていくことが大切なんです。
 こういう自然の中でこころとからだが作られてきていたのが、今はほとんど作られない社会になってしまった、という事が、まず第一問題です。
 実はヨーロッパは既に18~19世紀に産業革命が起こった時に、こういう体験をしました。その事を大人がしっかりと受け止めたんです。
 例えばスロバキアなどは1848年、全土に遊歩道を作りました。なぜならば、第1次産業が主体だった頃には、親はお天道さまをいただいて働きに出て、子どもたちは野良で遊んでいた。ところが産業革命でオフィスや工場に行き、普段囲われた中で決まった仕事、それも自然界が持っている物とつき合う仕事と比べたらずっと単純化されてしまった仕事の中に入ってしまう。そういった事に対して危機感を感じて、スロバキア全土の遊歩道は、若者たち、それから子どもを連れた若いお父さんお母さんたちが、好きなように歩ける道にしました。この『好きなように』が大切なんです。自分の思いで行ける遊歩道を作って、例えば私有地の牧草地帯あろうと、そこを突き抜けていい様に作ってあります。牧草地帯って日本人が考えると大した事じゃないと思いますが、あれは牧草を牛に食べさせて牛の肉を食べるわけだから、我々の田んぼと同じです。田んぼの真ん中を平気で歩かせているのと同じぐらいの価値があるんです。そういうものを早々と作りました。

 つぎに、ドイツでワンダーフォーゲルという言葉が出てきたのが1901年なんですが、その5~6年前は、大人たちが文明の利器を賞賛し、都会という所の設計に議論が集中していた時期なんです。しかしミュンヘン郊外の高校生たちが「大人はおかしい」「自然が無くて人間が生きられるか」「もし自分たちが都会の中に入り込んでしまったら、どういう事になるか?」と考えて、「自然と密着している農家の方々に知恵を学びに行こう」という事から始まって、毎週末に自然の中に向かって出かけて行ったんです。だから、日本にワンダーフォーゲルという言葉がたどり着いたときには、ちょっと変形してしまって「山岳部よりちょっと楽な山歩きのクラブ」だと思われているけれど、ワンダーフォーゲルはクラブではなくて『活動』『運動』なんです。「自然と密着した形で人間は暮らすべきだ」という運動だったんです。
 フランスは、労働組合のプッシュもあったのですが、学者たちがしっかりと考えて、1936年に「バカンス法」を作りました。都会の人たちは田舎に、夏休みの3週間ぐらい行って、逆に、第1次産業をやっている人たちは文化・文明を知る必要があるから、休みの時にはパリに出かけて文化・文明を学ぶ。だから今でもフランスは「農業国」と胸を張って言えるんです。農業はつぶしてしまわなければならないもの、古いもの、時代遅れなものになってはいないんです。両方共が必要だという事がわかっています。バカンスの時はお互いに提携し合って、農家の家族はパリに来て、パリの家族はその農家に泊まって過ごすというのが、かなりしっかりできています。よく日本人がパリに行って「さすがパリジャン・パリジェンヌはカッコいい」と言っていますが、夏休みにパリジャン・パリジェンヌはほとんどパリにいないんです。ぶどう園のおじさんおばさんたちが来ているのですが、それでもカッコいいのは、彼らも文化・文明を学ぶチャンスをちゃんと持っているからなんです。

 というような事で、100年ぐらい前にヨーロッパはこの洗礼を一回浴びてしまったのですが、日本の場合は自然が非常に豊かだったので、そういう洗礼を浴びずに、我々が「自然が減っちゃった」と気付かないうちに過ぎていってしまったんです。だけど、1960年代に世界的に「開発・開発」となった時、そこから来た問題はさすがに日本人も気付きました。大気汚染、有害化学物質による水や食物の汚染、電磁波その他・・・文明の利器によって冒されていく人体というのを考えたときには「これはやっぱりおかしいぞ」という事になりました。
 「発達障害者支援法」というのが平成17年にできましたが、この方々はいわゆる「知能障害」ではありません。ある意味で、周囲の環境や親子の関係を読み取る能力・・・要は私たちが昔から言ってきた、本能的に繋がりを見出す能力、そういうものが欠けてしまっている様な方々なんです。一説には「アインシュタインはADHDだった。周囲の環境とかの見分けはできなかったけれども集中力はあって天才だった」という話ですが、そういう事を考えると、確かに「オタク」も増えていますし、何かひとつ物事についてはもの凄くよくわかっている、でも社会性は無い、という方々が、結構大人でも多いのですが、子どもの中にもそういう人たちが多いです。
 今、偉い先生方がやっている、教育方針を変えるという話の中からは出てこないでしょうが、私たちが現場、小・中学校、高校の講演会に行くと、1クラスもしくは1学年に1人や2人は必ず、他と違う行動をとる子がいます。それは日本体育大学が1995年から調べています。幼稚園から小・中学校、高校までいます。そういう子たちは、他の子たちが話を聴いているときに叫んでみたりします。

 私はラジオのニッポン放送で「テレフォン人生相談」というのをやっていまして、あるお母さんからの問い合わせで、いじめ問題が大きくなったので、誰かをいじめているか、もしくは誰かからいじめられていないかを、娘に聞いてみたら「実は私たちはずっと1人の子をいじめていた。でもいじめが悪い事だと言われたのでやめた。その子はそばまで行って「ワッ」と言うとすごい勢いで教室から逃げ出す。それが面白くて、しょっちゅうそれをやっていた。でもそれがいじめだと言われてやめた。ただ、その子は授業中に教室で奇声をあげる。その奇声を聞くとものすごくイライラする。でもその時に教室から逃げて行せる事ができなくなったから、しょうがないから自分の腕を自分で咬んで我慢している。」と答えたそうです。お母さんの質問は2つあって「このまま娘にこういうストレスを与えておいていいんですか?」というのと「そのいじめられた子どもが、あとになって仕返しをしてくるんじゃないですか?」という事でした。そういう場合には一緒に出演している精神科医が答えますが、曰く「その子には仕返しをする能力はないから、それは心配ない。」それから、「お子さんの中に、周囲の環境に合わせる事ができないお子さんがいるんだよ、という事をちゃんと言って、その子たちの事を大目に見てあげるという事が大切だ。」と言ってくださいました。
 一方で、そういう脳の異変について、国際的には突然変異ではなく、いわゆる『環境変異』と言っています。日本はこれをあまり認めていないのですが、食物なり大気なりから有害化学物質を受けてしまって、環境が察知できなくなった人間たちの事は、カナダなど他の国でのデータはかなり揃っています。また、もろに環境汚染物質によって起こるアレルギー性疾患というのもあって、例えば鼻がズルズルしながら勉強しろと言ったって、頭に入らないじゃないですか。アメリカはもう既に15年ぐらい前に、アレルギー性疾患によりIQのレベルが5%落ちてしまっているというデータを出しています。またアメリカは社会を大切にする国ですから、奇声を発する子などに対して「リタニン」という薬まで開発されています。私が行った高校で、講演中に叫んだ生徒がいたときに、校長先生からあとで「申し訳ありませんでした。」と言われて、私は「周りのお子さんたちがよく我慢しましたね、慣れているんでしょうね。」と言ったのですが「いえ、慣れているとは言えないんです。僕はいつも胸のポケットにリタニンを隠し持っているんです。」と言われたときには、日本の現場の現状というものが、いかに科学性がないか痛感しました。何か情緒だけで物事を議論した結果が現場に下りる、その悲劇というのをすごく感じ、かなりその事について私は言ってきているんですが、こういった健康被害というのも非常に大きいんです。
 そんな中、日本内科学会の認定内科専門委員会が、生活習慣病との関連で、ストレスというものがどれぐらい病気もしくは症状に影響するのかを調べています。特に高血圧、過敏性腸症候群、パニック障害、摂食障害、これは10代とか子どもたちでも起こるものです。特に子どもの高血圧なんて昔はあり得ないと思われていたのですが、15年ぐらい前に、東京女子医科大学の内科医たちが最初に、子どもたちを調べた結果20%ぐらい高血圧だったというのを発表して以来、みんなチェックする様になりました。

 1982年に、林野庁長官だった秋山さんという方が「森林浴」という言葉を提唱したのですが、森林浴をすると「憩える」「人のこころに安らぎを与える」という事と、森林が発生する揮発性物質の中にバイ菌を殺したり炎症を抑える作用がある「フィトンチット」というものがある、という話があったのですが、これは旧ソ連のトーキンス教授が1920年ぐらいに「フィトンチット」という言葉で、そういった現象を表す揮発性物質の分析をしたわけです。
 これはいろいろな化学物質があるのですが、例えばヒノキ、スギ、モミの葉には興奮作用があります。だから森林の中とかに行くと、結構みんな「気持ちいい」という感覚を持ちますね。逆に、ヒノキ、スギ、モミの材には鎮静作用があるんです。ヒノキ風呂で「リラックスした、いい香り」ってなりますね。ここにいらっしゃる皆さんは、そうなる世代だと思います。実は、林野庁関係で調べているデータを見ると、例えば杉の香りなどを今の若い人たちに嗅がせると「青臭くてイヤ」という人たちの方が多いんです。但し、そういう人たちの脳の血流を見てみると、嫌っているのにちゃんと脳がリラックスしているんです。だから、自分たちが普段いる環境とあまり異質な物は受け入れたくないので嫌うのですが、いわゆるDNAの中には森でリラックスできる反応がちゃんと入っているんです。私たちは「森林浴」という言葉を聞いただけで「森には力があるな」と思います。しかも、ちゃんと細かい調べをしていくと、各化学物質がいろいろな役目をしている事がわかる。それを庶民が信じましたから、内閣府のデータで見ますと、平成8年には森林に期待する役割の中で「保健休養」というのは12.2%だったのが、平成11年には15.5%、平成15年には26.4%になりました。そこで、林野庁は森林・林業基本法を変えまして「公衆の保健または教育(これは前から入っていました)のための森林利用の促進その他必要な施策を講ずるものとする」という事を、平成13年に加えました。ところが厚生労働省は、確かに森林が揮発する物質は証明されているデータもあるが、人間がそれによってどういう反応をしているか?という証明がないので、それを証明しなければ人間との関係は認められない、という事になり、林野庁にある森林総研の宮崎先生をはじめとする研究室の人たちがデータを出しました。
 まず行ったのが、血中のコルチゾール、これはストレスホルモンです。ストレスが高いと上がり、ストレスが少ないと減るホルモンです。この血中コルチゾールを比較したところ、都市環境の中にいる時と森林環境の中にいる時で、ちゃんと有意の差で森林環境の中にいる時の方のストレスが少ない事がわかりました。また運動前と運動後のNK細胞を調べました。NK細胞(ナチュラルキラーセル)は、リンパ球の中で癌源細胞などの体によくない細胞を食べてくれる細胞です。これが都市環境で運動をした前と後では有意の差はありませんでした。だから「運動が必要だ」と言われるけれど、それを「どこでやるか?」というところまでは、日本ではまだ考えていなかった。ヨーロッパでは100年も前に運動をする場として戸外に出て、その戸外も、山の中のような自然環境の中へ出ていく、というという事を作っているのですが、日本ではそこのところがはっきりと分けられていないんです。でも、これでよくわかったと思いますが、都会で運動をしていては、体を健康に保つ効果はあまりないんです。運動前のNK細胞数は都会でも森林でもあまり変わりません。それが森林環境の中で運動すると、有意の差でNK細胞の数が増えます。そればかりでなく、都会にいるときにはこのNK細胞は活性化されていませんが、森林環境の中に行きますと活性化されています。そういう事から考えれば、やっぱり人間は『ヒト』だったんです。200年前の、都会化する前の森に住んでいたときのまま、ヒトとしての体はあるんです。

 次に、いろいろな物に汚染されて、自分も汚染され、他人の汚染の影響も受けて、そういうストレスがいっぱい溜まってきた。のみならず、都会環境という単純な景色しかない所に閉ざされている事によるストレスが、実は高血圧・肥満・パニック症候群といった疾患を引き起こしてくる。
 このストレスは個別のストレスではないんです。もう都会にいるだけで浴びてしまうストレス群というのがあって、それを捨てに行くのはどこか?と言ったら、森林です。今のところ森林しか調べられていませんので、高い山がいいのかどうか、その辺のところは科学的には言えないのですが、森林だけではなく、草原も、高い山もよろしいのではないかと思いますが、そういう事がわかってきました。
 そこで、森林浴が提唱されて庶民も「森林浴が憩いの場としていいらしい」と思いだしてから、20年も経っているのですが、やっと2004年に森林セラピー研究会を設立し、昨年は国際学会もやりましたし、「森林医学」という本も出しました。そして、今この事でいちばん研究をしていらっしゃるのが、日本医科大学の衛生学・公衆衛生学教室の講師で李 卿先生という方です。この方は、宮崎先生とはまた違う角度から調べています。そのデータが一致するんです。例えばストレスに関しては、宮崎先生たちはコルチゾールを血液や唾液で調べられている。それを李先生は、同じ様に違う作用のストレスホルモンであるアドレナリンの様な物を尿で調べられている。でも両方ともデータは同じ、都会よりも森林にいる時の方がストレスは低減するんです。
 さらに、20歳の若者、子どもにより近い人間で行った実験ですが、前の日に「森林に行きましょう」と言うのと「都会に行きましょう」と言うのとで分けます。そうすると、「森林に行きましょう」と言われた人は「えー?」と言うんです。 「都会に行きましょう」と言われた方が「ラッキー」みたいな話です。ですが、「森林に行きましょう」と言われただけで、ストレスホルモンは減っているんです。もっと言うと、森林の絵や写真をじっと見ているだけでストレスホルモンは減るんです。それだけ人間は『ヒト』として自然界を求めているんです。そこで、リラックスしたストレスのない形で、高血圧や肥満に翻弄されない様な体になった形でいられるわけです。またもっと言うと、若い子は匂いが嫌いなので、匂いを消したかたちの薄い杉の香りを湿らせたマスクをして、子どもたちに計算をさせますと、計算が速くなり正確になる。こんなデータまで出ています。
 もう一つあります。運動と脳機能の関係ですが、(今回は健常者の場合ですので)まず運動をすると脚筋力が増えます。有酸素能力も増します。反応時間も早くなります。認知機能も増します。それから、遂行機能も上がりますし、脳循環代謝も活発になりますし、神経伝達効率も良くなります。ですから、神経伝達物質も増えるし、海馬歯状回の神経細胞の数も増えます。
 これは、子どもの事だけだと思わないでください。今から5~6年ぐらい前までは「35歳ぐらいを過ぎると、脳細胞が1日10万個ずつぐらい減っていって、脳細胞は絶対に再生されないから、だんだん認知障害になっていく」とすっかり信じられていたのが、脳の科学が進んで、ここ2~3年に出てきているデータでは、何歳になっても運動をする事で脳機能が増す、という事もわかってきていますし、その機能がどういうところでどの様に増すかという事もわかってきています。脳幹部は、運動が強ければ強いほど機能を増していきます。視床下部は、有酸素運動の様な楽な運動をしている時には働きません。但し、激運動に入った途端に運動をストレスと感じる様に働きます。だから、ゆっくり歩いている分には何も起こりませんが、長く歩いたり早足で歩いたりすると、汗が出てきますね。体温の上昇がストレス側に働いて、次の機能を動かさせるんです。それから海馬には2つの場所がありまして、アンモン核というところは、激しい運動をすると神経細胞が脱落してしまいます。歯状回の方は、運動強度に従っていきます。要は人間の体はものすごく複雑にできていて、でも、一言で言うとバランスを取るために両者があるんです。例えば、運動にも「エイジング」があって、子どもは身が軽いですから走らせていいんです。でもその距離は、子どもに決めさせないとダメです。なぜならば、子どもは何もわかっていない様だけれど、動物が本能でわかっている様に、走って汗が出て疲れてきたらやめます。そういう事をできるのが動物ですよね。15~16歳ぐらいまでは、背骨などがしっかり育っていません。さらに、あまりにも激しい運動をさせると、心肺機能のバランスがまだとれていませんので、突然死の確率は、実は高齢者より高校生の方が高いんです。

 こういう事をふまえた上で、自然の中で何をすればいいのか?その前に、100年も前から自然を、機能の回復だったり、機能の賦活だったり、健康のためだったり、というふうにして使ってきたヨーロッパの人たち。ヨーロッパは子どもたちも健康という事もあるのですが、プラス高齢者。日本がいくら世界一の長寿国になったと言ったって、あんなのは瞬間的なものなんです。フランスなんかは100年前から高齢国なんですから。というような事になっているのは何故かといえば、こういう影響を受けたところの設備を見ればわかります。マレーシアは熱帯雨林ですから、林の中は歩きにくい。すると遊歩道を作ってしまうんです。フィンランドには板張りの道がほとんどの国立公園にあります。また2~3時間ほど歩いたと思った所に小屋があって、バーベキューでも何でもできる様に薪まで積んであります。もちろん無料です。南アフリカでも木の階段なんかがあったりして、岩場と岩場の間が通れる様になっていたりします。フィンランドで言われました。「日本にも遊歩道があるんだってね。でも、尾瀬とかの木道は、人が外へ出ない様に作ってあるんだって?私たちの木道は、人が歩きいい様に作ってあって、出たい人はどこへ出てもいいのよ」と。考え方が違うんです。要は人間をヒトとして見た時に、自然の中に呼び込んで思いっきり自然を満喫してストレスを減らしたり、NK細胞を増やしたり、もしくは子どもたちの機能をどんどん賦活させて自信を持たせて「物事は成功裏に終わる」という発想をさせたり、という事を、細かくは分析していないのですが、そちらの方向で考えています。
 実は日本の方が自然はずっと豊かなんです。春夏秋冬いろいろあります。また例えば民俗を見るのだって、知らない山へちょっと登っていくと、祠があったり社があったりお堂があったり、また山岳宗教も昔からあって、本来は日本は自然に対する接し方はバラエティに富んでいて豊かだったんです。江戸時代の「長屋の花見」というのがありましたが、たくあんを卵焼きに見立ててでも桜の花見に行ったりしていたじゃないですか。いろんな事ができたんです。ところが1960年代ぐらいに「バカと煙は高い所に登る」なんて言われて山登りはみんなに非難され、海で遊ぶのもみんなで非難された。何故かというと、みんなが先進国に追いつけ追い越せで一生懸命働いているのに、そんな所でもしも遭難があったら周りの人々に迷惑だ、という様なことから、もしくは、テレビが普及してアメリカのホームドラマなんかを見て、家の中だけ立派にして、屋外の事を忘れてしまったのではないか、と思います。

 言いたい事は何かというと、学校が物事を教えるのも大切ですが、ただ教えるだけではなく、ウォッチしているだけで子どもたちに好き勝手にやらせて自信をつけさせるとか、ヒトすなわち動物としての発達を促す様な方法というのがまずは必要ではないか。またそれを行う単位としては、親子もしくは地域の住民とお子さんです。
 私たちがやっているのは2つあります。ひとつは、森林の中に行って植林をして、下草刈りや枝払いをやっているんですが、最初は(年配の)自分たちだけでやろうとしたのですが、よく考えれば「10年20年経ったらみんな死んじゃうわね」という事で、若い人たちに手伝ってもらう事にしました。若い人たちを呼んで「教えてやろう」だとか「やらせてやろう」ではないんです。動物でも、自分が相手にやってあげられる事があったら、やってあげたいんです。ところが日本の教育というのはみんな「教えてあげよう」になっているんです。手伝ってもらうのは小学校3年生から上ぐらいにしたのですが、3年生の時はお父さんお母さんにくっついて来ているだけでした。4年になると、鎌を振りながらふざけて危なくてしょうがなかった。5年になると、もう一人前の作業師です。4年生の子がまだ小さなヒノキとかを切ってしまったりした事もありましたが「それもいいでしょう」と、失敗は失敗として認めて「これからよく観察してからやってよ」と、任せました。そうやって任せていると、3~4年経ったらもう一人前の山仕事師になっていました。そして年に3回ぐらい、この子たちが自分たちの山に来て木の育ちなどを見て回ってくれています。
 もうひとつは、北海道と東京と九州で「森林マラソン」というのをやっております。これは、老若男女を問わずみんなに楽しんでストレス解消をしてもらって、NK細胞を増やしてもらって、みんなが癌なんかにかからずに「ポックリ」死ねる様な人を増やそうという事で始めたのですが、その中に、親子で一緒に走ってもらう項目があります。もう10年を過ぎましたので、初回に4歳の時から参加した子どもは13歳になっています。4歳ぐらいの頃は、走れる部分だけ一緒に走って、ダメになったら肩車をしたりおんぶをしたりしながら走ってきた。そのうちに子どもの方が速くなってきた。大体、最初から来ている人たちは、子どもの方が速いです。先に走っていって、ゴール寸前の所で待っていて「お父さん遅いから抜かれちゃったじゃん」とか「お母さん早く来て」という話で手をつないでゴールする。ここで見えてくるものは何かというと、親にとっては子どもの成長。人間の子どもは、なかなか親を見にくいものなのですが、動物の子どもはよく見ています、戦うから。戦った時に「あのボスはもうダメだ、自分の番だ」というのがわかります。でもこういうマラソンをするとわかるんです、お父さんお母さんが遅れますから。そして「お父さんお母さんより自分の方が発達したんだな」と思うと「よし、こんどは自分がお父さんお母さんを助けてあげなけりゃ」というふうに、子どもたちが思うんです。「お父さんもお母さんも年取っちゃってさあ」という話をみんなでよくしているんです。すなわち、親子の絆とかができるんです。
 背景はセットアップしてあげるけれど、全てのものを自分の意志で動かしていくと、自然の観察も細かくなるし、人と人のつき合いの観察もできてくる。そういう部分もこれから伸ばしていくべきだと思います。

 但し、残念ながら人間が地球を、特に北半球を壊してしまった。一番最初に被害を受けたのはヒマラヤです。1970年代から被害を受けています。その次にヨーロッパ大陸が受け始めました。そしてアメリカが受け始めました。日本は1990年代になるまで温暖化による気象の凶暴化は受けていなかったのですが、昨年の10月6~8日に大低気圧が日本を縦断した時に、山も海も都会も、遭難事故がたくさん起きました。死亡者も出ました。私はその時に白馬にいたんです。白馬でも遭難が起きて4人亡くなりました。その日に私は山へ行きませんでした。でも行かなかったのは本当に紙一重です。朝起きると天気雨だったんですが、その天気雨が横なぐりでものすごく冷たいんです。空は晴れていて空気は暖かいのに冷たい雨なんです。これはおかしいと思って様子を見ようという事にしたら、案の定でした。里はずっと3日間天気雨だったんです。でも冷たい雨。という事は山の上は冬の真っ只中に変身していたんです。という事で、地元の人でもなかなか読み切れない様な気象変動が起きてきていますので、自然の中で育まれて欲しいのですが。
 自然で心と体を育むには、まず、大人が子どもに対してという事では、無理強いをしない。例えば「安藤語録」の中に「高い頂に登れば、その後ろには深い谷底がある事を忘れるな」みたいな話が書いてありました。まさに自然はそうなんです。もちろん大人の仕事の場での教訓として書かれたのでしょうが、それが真理なんですね。子どもに無理矢理「早く行きましょう」なんて追わないで、自分のペースで山登りをさせてあげると、最初は喜んで速く登りすぎて、帰りが疲れてしまっても、その次には「下りるまでエネルギーを減らさない様にしよう」と、ちゃんと頭の中で考えるんです。それが何回もやれば「登る時には初心に帰らなければ」というのもインプットされるんです。大人になって言葉で憶える前に、体が子どものうちにそういう事を憶えてしまえるんです。そういう事を考えると、やはり無理強いをしない。周囲でセットアップはしてあげるけれど、観察をしてあげるくらい、彼らにとって危ないところだけは回避してあげる程度がいいと思います。
 それから、高所には連れて行かない方がいいと思います。日本の場合は3,000m以上はあまりないですから、あまり問題にはならないんですが、子どもたちは高所はあまり向かないと思います。それと、先程説明した、凶暴化した気象に翻弄されない程度に、選んだ場所へいらした方がいいんじゃないかと思います。
 高所の事ですが、高所は低圧で低酸素で酸欠になってひっくり返ると思われるのでしょうが、実は酸欠になる前に、もうひとつありまして、肺内水蒸気圧というのは、海抜0mでも、3,000mでも変わらないんです。そうすると、大人の肺は普段使っている4倍から7倍、肺を使う事ができる様になっていますが、子どもの肺は思いっきり使ってしまう。また先程言いました様に心肺機能のバランスがとれていないので、肺の中の海抜0mなら6%にすぎない水蒸気が3,000mになると19%を占めてしまうという事は、大きな障害になるわけです。なおかつ、子どもの場合は大人の2倍の酸素を使って脳を回転させていますから。本当は赤ん坊なんかを飛行機に乗せるのは言語道断なんです。
 子どもは大人の小さいものではなくて、発達途上にあるものだから、そのエイジングに合わせる必要がある。なおかつ動物である「ヒト」からだんだん「人間」にしていく、という部分もよく考えた上で、自然とつき合わせてあげるといいのではと思います。

 どうもご静聴ありがとうございました。


今井 通子(いまい みちこ)先生略歴
医師、登山家 1966年 東京女子医科大学卒業、医学博士。1971年 女性として世界で初めて欧州三大北壁完登者となる。1989年 アフリカ最高峰キリマンジャロ登頂後、山頂よりパラグライダー飛行に成功。現在、東京女子医科大学附属病院腎総合医療センター泌尿器科非常勤講師、日本泌尿器科学会専門医、東京農業大学客員教授、株式会社ル・ベルソー代表取締役社長
【主な受賞歴】 朝日ビッグスポーツ大賞(1967年)、前立腺肥大症における副腎性アンドロゲンの役割に関する研究で吉岡研究奨励賞受賞
【主な著書】 「私の北壁(朝日新聞社)」「山は私の学校だった(山と渓谷社)」「自然流おいしい食事(講談社)」など多数